最近知り合った近所の年配の人が、このところ元気がなかったので、
少し心配になって、立ち話をするようになりました。
あまり人のプライバシーには、なるべく立ち入らないようにしているのですが、
そういう姿勢がかえって、相手には心地が良いのか、
ますます悩み事を打ち明けられる結果になります。

悩み事を抽象的にまとめると、
10年前に自分が夢描いた目標が、10年経っても実現しないという失望と焦りで、
最近それが災いしたかのように、立て続けに悪いことばかりが起こるということでした。

アドバイスのようなことは、最近はしないようにしていて、
黙って話を聞くだけになるべく留めるようにしています。
そして、夜寝る前などに、自分のこととして一緒に考えるのがいいのではないかと、考えながら...、
そのうち眠ってしまいます。
すると朝目が覚めた時に、ふと自分なりの答えが頭に浮かんで来ることがあるのです。

その答えは、「人が求め追いかけるものは、なぜか逃げようとする」という言葉でした。
これは恋愛に置き換えると、誰もが心当りがあることでしょう。

昔の70年代のアイドルタレントがラジオで言っていましたが、
「人気絶頂の頃は、ファンに追いかけられるのが一番の恐怖でした。」
これは冗談でも自慢でもなくて、本気で殺意を感じたそうです。
必死に向かって来るものに対して、
逃げるのは運動能力のあるものの自然の本能なのではないでしょうか。

この「追いかける→逃げる」という図式と反対側にあるのが、
「引き寄せの法則」という言葉です。本屋に行くと、
この手のスピリチャル関連の本がいろいろ並んでいます。
有名な『思考は現実化する』とか『シークレット』とか、
はたまた孫引きのような本まで沢山あって、
先日の連休に本屋で立ち読みをして来ました。

内容は、だいたい「類は友を呼ぶ」という考え方を基本にしているようでした。
自分の身の回りには、大体自分と同じような「意識レベル」を持っている人が集まるという傾向は、
確かにそうかもしれないなと納得しました。
しかし、この「意識レベル」ということがなかなか人には理解されにくいだろうなと思われました。
確かに容姿とか考え方が同じ場合もあるけれど、
現実はそんなに簡単なわかりやすいものではなく、
もっと複雑な仕組みで出来ていると思うのです。

ラジオの周波数で説明している本もありました。
チューナーを調節するかのように、波長が合った時にラジオから音が聞こえて来るように、
自分の求めたものの波長と自分の波長が合えば引き寄せられるというものです。
しかし、人間の身体のどこにそのような波長が流れ出しているのか、
そのような具体的な解説は見当たりませんでした。

そこで自分のこれまでのわずかな経験を総動員して、
「引き寄せの法則」を使って、
悩んでいる人に簡単にうまく説明して解決できないものだろうかと、
しばし考えてみました。

すると次の日の朝に、
今度は「本当に自分の欲求が叶えられることは、幸せなことなのだろうか?」
という言葉が浮かんで来たのです。

なるほど、もし本当に自分が叶えたい夢があって、
すぐに必ず実現されるとしたら、かえって、そのことで悩むことになりそうです。
安易な夢を持つことができません。

そもそもその人の10年前の夢って、それが叶ったら、
その人は本当に幸せを掴むことになったのだろうか?とその夢の内容を紐解いてみました。
人の夢を批判するつもりはありませんが、
それはとても凡庸で、誰もが思いつきやすい単純なものでした。
そしてまた、現実的な目で見ると、現実とは、本当に複雑に出来ているのです。
たとえ雲一つない真っ青な空でさえ、その色の複雑さは、底知れない青さです。
これと同じように、人の幸せも単純な絵具のチューブから出したようなものではないはずです。

人にはいろいろな夢があって、実現される場合があるかのように思われがちですが、
たいてい成功したとされる人の伝記などには、
むしろその実現は紆余曲折で、
本当にその人が思った通りの結果になっているかというとどうでしょうか。
むしろ、「自分の最初の夢とはちょっとずれてしまったのだけれど、
偶然にも思わぬ出会いがあって、それとは違う流れに乗ったのがかえって良かったのです。」
と言われることが多いような気がします。

自分の幸せとは何かを考えるとき、
メーテルリンクの「幸せの青い鳥」を思い起こします。
幸せは、具体的な簡単なものではないと思います。
むしろ目立たなく、あたりまえのもので、自分がすでに持っているものではないでしょうか。

例えば、「空気」とか「水」とかこうして奇跡的に毎日元気に暮らしている事実に、
まずは感動し、感謝する。
そして、その繊細な心根が、良いことを呼ぶかのように、
次々と良いことに気付いて行くということなのではないでしょうか。

私の作品を喜んで下さる方々は、皆このようなあたりまえで、
目立たない幸せが、本当の幸せであることを知っていらっしゃる人たちです。
そして皆一様に、幸せを体現されているかのようです。
だから生活の必需品ではないアートを買ってみようという行動が抵抗なく出来るのだと思います。
それはすでに、生活も精神もある程度満たされているという土台があって出来ることであり、
それを目指すのであれば、やはりアートは必需品だということなのです。

そういう意味で、アートがあるから幸せなのではなく、
むしろ「すでに満たされている人にアートが引き寄せられて行く」
というのが本当のところなのです。

今以上の水準の生活を目指したいと思っている方には、
是非このことをよく知ってもらえたらと思っています。

刺激的なものが自分を幸せにしてくれると思っている人たちは、
その欲望を追いかけて、疲れ果て、その夢によって自分を責め、苦しませて行くことになります。
その負の波長がさらなる苦悩を呼ぶことになるように思えてなりません。
アートを鑑賞する余裕などないのも当然です。

今日のこの生活が充実し、無事に生きられることへの感謝や喜びを十二分に味わい、
自分の理想や夢や幸せとは何かという答えを一生涯考え続けられることが、
すでに幸せで在ることであり、成功していることなのだと、
私自身あらためて自覚しているところです。

繰り返しますが最近は、悩み事を受けてもアドバイスは直接していません。
私はカウンセラーではないからです。
でも、なるべく世間の人たちの悩みを自分のこととして一緒に考え、
ブログに書いて置くのが良いのかなと思っています。
何らかのヒントになれば幸いです。

tsuta

追伸:今日はこれから長野市内権堂商店街で「唐ゼミ」の野外演劇『木馬の鼻』を見に行くところです。
唐十郎作品は、20年以上前に新宿御苑で見て以来のことです。
秋らしい清々しいお天気で、とても楽しみです。