今朝方、小鳥が激しくさえずる中、次のようなつぶやきを読みながら、しばし睡眠をとったのでした。

自己の内に秘めたる自然は、自己との対話によってしか開花させることは出来ない…..。(by @pesu1028)

このところ、@pesu1028さんと、かなり濃密にTLをやりとりしています。
その合間に2回お会いして、短い時間ながら、
画家活動を一つのビジネスモデルとして捉え、意見交換をしております。
いつももったいないくらいのお話しが聞けて、感謝し尽くせません。ありがとうございます。

さて、上記の言葉には、いよいよ彼の本領が露出。
哲学的思索の一端が短いフレーズに凝縮されています。

これに触発されて、本日は、私の制作の神秘のベールを一枚めくり、
絵画における「無意識」と「自然」を取り入れることの意味について考え、
自分の制作における「内なる自然との対話」についてご紹介したいと思います。

絵画と自然との対話は、おそらく美術史において自覚的に始まったのは、印象派の時代から。
外光を求めて、画家が室内から外に出て行ったのです。
それまでは、せいぜい窓から見た景色を写すという意識です。
ですから、多くのキリスト教絵画が劇場を彷彿させる、舞台装置としての自然を感じさせるのです。
このように人間と自然との分離が、自ずと絵画に露出されていることを知ることは重要です。

なぜ、そこから画家が自ら自然の中に入って行くことができたのか。。。
それは、いくつかの理由が考えられますが、
特にチューブに入った絵具が1840年に開発されたことが、大きな役割を担っているのです。

それまで油絵具は、画家あるいは工房の徒弟達が手作りで顔料を粉砕し、
さまざまな秘法で油と調合して作っていたのです。
これが、チューブに入れられて市販されるようになると、気軽にそれを外に持ち運べるようになりました。

余談ですが、このチューブ絵具とピアノの開発とは、とても近しい関係にあるように思えてなりません。
専門外ですが、無限の音の中から、ある音を取り出して集めたものがピアノならば、
無限の色の中から、もっとも代表的な色をセレクトして販売されるようになったのが、チューブ絵具です。

従って、印象派の画家たちの描く自然の中の人間の身体そのものに、自然の風光が色として落とされているのです。
この表現、おわかりになるでしょうか?
私たちは意識していませんが、常に身体に空や太陽の光を受け、木陰に入れば、その陰が身体に落ちる。
緑の中の水辺に立てば、その水面にたゆたう反射光が顔を照らす。
そのようにして人間が自然の中に存在することを、画家は描き出すのです。

この印象派の絵画における世界観は、「自然は人間を取り囲むもの、人間は自然に抱かれている」とう眼差しです。

しかしながら一方で、人間が自然に出掛けるような余裕が無くなって来ているからこそ、
これらの絵画が求められた、あるいは生まれたと言っても過言ではありません。
文明は、人間から自然を奪い、次第に自然を破壊していく。

@pesu1028さんも仰るように、人間の自然回帰への思いは、
ずっとこの印象派の時代から続いているように思えてなりません。

しかしながら、私はこの印象派の世界の自然に対する眼差しは、
やはりどこまでも、人間対自然を外側から観察した目であって、
人間の内面への観察というものにはなっていない、と思われるのです。
つまり、自然は人間の骨の髄まで浸透していないように思われるし、
また人間の内面にはまだ目が向けられていない。
せいぜいゴッホの夜空に彼の情感が投影されている作品『星月夜』というところでしょうか。。。
名作ですね、大好きな作品です。

さて、ここで絵画が人間の内面に向かわなければならなくなる、決定的な事件が起きます。
それが@hosakanorihisaさんがご指摘のように、カメラの発明です。
人間それを取り囲む自然を、カメラで用意に切り取ることができるようになります(ご指摘グッドタイミング!)。

ここからカメラでは写し出し得ない、人間の内面に画家は注目するようになります。
これがシュールレアリスムの登場です。
これはまた同時に、心理学、精神分析学というような研究ともリンク致します。

ダリの絵画に見られるような夢の表現が一番わかりやすい例ですが、
幻想性を醸し出すダブルイメージという表現方法や、
題材とは別に偶然性をつくろうとした、マックス・エルンストに代表されるような
フロッタージュ、デカルコマニー、コラージュ技法というようなオートマティズム(自動手記)が生まれてきます。

このオートマティズムがアメリカの抽象表現主義に舞い降りて、
ジャクソン・ポロックに代表されるようなアクションペイントへと続いて行きます。

アクションペインティングとは、何も人を驚かそうというようなパフォーマンスではなくて、
画布を床に敷き、絵具やペンキをドリッピングすることで、偶然性を絵画に取り入れようという試みだったのです。

私は、この絵画における偶然性の発見が、まさしく人間の内なる自然が露出した瞬間と言えると思うのです。

このように、偶然性が無意識への扉になっていたのです。

再び戻って、絵画における「自己の内に秘めたる自然」を取り出す方法は、まだまだありそうに思うのです。
しかしながら、以上のようなモダンテクニックが浸透して行くと、
そこから新しい方法を打ち立てるのが、なかなか難しいものです。
最近見たゲルハルト・リヒターも、マーブリングというモダンテクニックを使っていました。

さて、私の制作における偶然性とはどのような方法でしょうか?(ようやく本題に入りました。)
私の場合は、習慣あるいは習癖と制作を結びつけることによって、無意識を誘導して行きます。

私は、この10年、ほぼ毎日、朝から夜まで筆またはカッターを手に持ち、
2年前までは6.5帖の狭い制作室に籠って、ただひたすらに画面と向き合っていました。
2年前に今の場所に移り住んでからは、やっと12帖の広さで制作出来るようになったのですが、
慣れるまでに2年かかりました。

毎日ひたすらに繰り返される、スクラッチとハッチングという、線描を画面に集積して行く単純作業。
このことは、ほぼ何も考えずにそうする生活です。
そして身体が、「もう、そういう仕事しか受け付けません。それをしないとどうにかなってしまいます」
というくらいのところまで来たのでした。
(少し危ない、ということで、ここへ来て、少し方向を転換するようにしています)

そのような制作習慣は、そもそも私のもっとも楽な方法で、気持ちがとてもリラックスします。
毎日習慣化されると、筆も自在に動き、疲れることを知りません。
そして、繰り返しからありきたりなものしか生まれないかというと、そのようなことはなく、
その単純な世界に刺激を求めるようになるものです。
昨日とは違うことを試みてみようとか、その時々の心の変化を筆先から出すにはどうしたらよいか、
そして一体どのような呪縛にかかり、このような業に埋没するようになったのか等の内省。
飽くなき自己探求がはじまり、そしてまた波が引くようにして、
自分という存在すら消えてしまうような瞬間があります。

このような制作の習慣の中で、積み重なって行く線描は、
静かに私に偶然の道のりというようなものを示し始めます。
心の斑が、そのまま斑として画面に残り、
そこにどうしても筆を置かずにはいられない、誘導と衝動とが呼応し始めるのです。
私自身の内なる自然が、次第に画面の上に定着し、その声を聞きながら筆を置く場所が決まって行く。
その道以外にはあり得ないというような決定的なもので、それは瞬時になされます。

私自身の制作におけるこの「内なる自然との対話」は、長い間自分自身すらも無意識で行って来たといえます。
なぜそのようなことをするようになったかと問われれば、これを一生続けてみたいと始めたからです。
制作すればする程、「内なる自然」には、どういうものが隠されているのかを知りたくなります。

そして、出来上がったものを人と一緒に見た時に、
期せずして、さまざまな自然の事象として語って下さることに驚きます。
その時に初めて、私の内と外との壁が崩れ、自分が自然そのものとして生きていることに安堵するのです。

「鳥は鳥として、誰にも教わることなく自由に空を飛び、生きて行く」

そのように私もまた、画家として生かされていると感じることができるのは、
この「内なる自然」を大切にする制作方法だったからでしょう。
しかしながら、それは無意識で行って来たために、初めて今朝そのことに気づかされたのでした。

私の作品について その3ー「内なる自然との対話」おわり。

追伸:長々と語ってしまいお恥ずかし。。。。失礼致しました。