今日は、朝から偏頭痛と熱で、思うように制作が出来ません。トホホ。。。
こういう時は、しばらく身体を休めて、一番自分がしたいことをしようと、思いついたのが、ブログの書き込みです(苦笑)。
文章を書くことで、頭の中が整理されると、もしかしたら頭痛もおさまるかもしれません。
「アート」「芸術」を見失ってしまっているような今日、それでも私のわかる範囲で、是非その素晴らしさをご紹介しようと思い。「アートって何だっけ?芸術って何だっけ?」というシリーズで、たまに書いて行くことにします!
さて、最近夢中になっていることは、哲学書を読むことです。
もともと、美学、芸術学というのは、哲学の中の一分野なのです。ご存知でしたか?
こんなことを最初に書くと、「アートは、やっぱり難しいのか~!」と尻込みしちゃいますか(苦笑)?
あまり私は、意識して本を選んでいるわけではないのですが、たまたま選ぶ哲学の本には、必ず途中に「芸術」について触れられていまして、
私は「芸術」という言葉が出て来ると、「出て来た、出て来た」と、わくわくしちゃいます♪
最近は、芸術を「ゲイジュツ」とか「アート」とか言って、「難しこと言うのはよそうよ!」という風潮がありますが、それは、「芸術」を正面から向き合わないようにさせていて、かえって「芸術」をわからないように操作している、あるいはそんな弊害を感じて、残念でなりません。
今日ご紹介する「芸術」は、きっと、そういう人々の「芸術」への不安や疑いをやさしく取り除いてくれることでしょう!
それが、マルティン・ブーバーという人の『我と汝・対話』という本に出て来る「芸術」です。
私は、「はっ!」とするような言葉に出会いましたので、まずはご紹介しますね。
中国の詩人が語っている、ーー自分が玉笛で歌をかなでたとき、ひとびとはその歌を聞こうとしなかった。
そこで神々にむかってその歌をかなでると、神々は耳を傾けた。
それ以来、ひとびともその歌に聴きいるようになった、と。
すなわちこの詩人はやはり神々のところを去って人間たちのところへ帰っていったのである。
なぜなら、作品は人間を不可欠の相手としているからだ。
芸術作品というものは夢の中でのように人間との出会いを待ちこがれ、作品のうちに呪縛されている形姿を人間がその呪縛から解き放って、永遠の一瞬間抱きしめてくれるのを待望しているのである。
マルティン・ブーバーの芸術観は、なんて愛に満ちているのでしょう!
「理屈なんて要らない、君が好きだ!」と、ただただ抱きしめられてしまう。。。
アートはその愛を待ち望んでいるのです(笑顔)!
そしてこのように簡潔にまとめています。ちょっと難しい書き方ですね。
難しいことが苦手な人は、飛ばし読みしても結構ですよ。
後で詳しくご説明しますから、ご安心を。
芸術作品の学問的、審美的な理解力が不要だなどというわけではない。だが、そのような理解力は誠実に果たされねばならず、そして、理解しうる事柄を内に内包しつつ理解を超えている「関係の真理」のなかにはいりこんでゆくためにこそ必要なのである。
(by マルティン・ブーバー『我と汝』関口義弘訳)
マルティン・ブーバーという人は、社会に蔓延している人間疎外的な「我ーそれ」という関係に代わって、本当に大切なのは「我ー汝」の関係である。
という、たったこのことだけを追求したといってもよい思想家、哲学者です。
「我ーそれ」という関係は、例えば、会社で新入社員を「あいつ、使えないやつ」みたいな、道具のように人を見なす接し方です。
「我ー汝」の「汝」とは、ドイツ語でduを日本語に訳す言葉が無かったようで、古めかしい言葉に置き換えられていますが、親しみと敬愛を込めた「かけがえのない私の大切なあなた」というような呼び方なのです。
「汝」は、人間同士の関係のみならず、動物やものに対しても成立する関係として述べられています。
「それ」と思っていたものが、突然ある時「汝」になることが、あなたにもありませんか?
私は、今使っているこの木の机は、小学1年生の時に父が選んで買ってくれたものですが、今や『汝』としか思えない程の間柄です。私がものを考え書く、パソコンを打ち込む、そういうことをずっと下から40年支えてくれています。毎日私と一緒なので、つやつやとして、しっかりしたものです。
しかし、この私の机は、私にとっては「汝」ですが、私がいなくなったら「汝」でなくなってしまうかも、残念。。。
ところが、不思議なことに「芸術」は違います。
ブーバーは、そういう「それ」が「汝」になる一番普遍的な例として「芸術」をとりあげています。
芸術は、時代が経とうが、誰かが買った中古であろうが、国境を越えて、さまざまな人の「汝」であり続けるのです。このようなもの、他にみつけることできますか?
つまり、そういうものが、絵画であろうが、音楽であろうが、建築であろうが、芸術、アートとされるものなのです。あるいは、そうなるように、つくられているものなのです。
もとにもどって、ブーバーが、「関係の真理」と言うことについて、深く考えてみました。
私はこのように解釈しています。
芸術作品は、そのもの自体は、内側にさまざまな無限の内容を含んでいます。
それをどのように取り出すかは、それに向き合い「汝」と感じた人次第。
つまり、芸術作品は、人が「汝」と思う程に、大切に接した場合のみ、芸術として成り立つのです。
作品はそういう人が現れるのを、今か今かと待ち望んでいます。
「世界にたった一人でいい。この私を汝と思ってくれる人がいれば、私は芸術として存在出来る」
そんなことを夢見て、ひっそり息づいているかもしれないのです。
(余談ですが、昔から私はいろいろな人に言ってきましたが、美術作品の材料は、そこらへんのとりあえず簡単に手に入れられるようなものを使うんじゃなくて、長く時の流れに耐えうるようなものを、吟味して選ぶよう心がけなければならないのです。その理由は、ひっそり息づいている時間が長くなれば、それだけ作品に多くのチャンスを与えることになるからです。)
そして、長い月日のうちには、沢山の人たちに囲まれて、さまざまな無限な内容を語り始めます。
つまりそれは、一個人の限られた解釈を超えたものと言えましょう。
芸術に捧げる芸術、人間のなす技を超えて、神になろとうとする芸術、そのように制作することは、確かに素晴らしいことと思います。
しかし、結局は人との関係によって、芸術は存在出来るのです。
中国の詩人が、やはり神々のところを去って人間たちのところへ帰っていったように。。。
この文章を読んで、私自身の作品もまた、人間を疎外するようなものであってはならない、そう自戒します。
さて、ブーバーの「芸術」、いかがでしたか?
素敵な言葉なので、もう一度ご紹介しますね。
芸術作品というものは夢の中でのように人間との出会いを待ちこがれ、
作品のうちに呪縛されている形姿を人間がその呪縛から解き放って、
永遠の一瞬間抱きしめてくれるのを待望しているのである。
こんな優しい眼差しの思想家がいるのですね。
私たちアートを愛する者は、これを知ることで、どんなに救われることでしょう。
ブーバーは、この本の中で、まだまだ、芸術について、さまざまな啓示を与えてくれています。
「芸術の永遠に変わりない起源は、どのようにその一人の作家に降りて来るのだろうか?」
というようなことも、よく注意して読んでみると、書かれていますよ。
興味があったら、是非読んでみて下さいませ(笑顔)!
本日は、マルティン・ブーバーの芸術観をご紹介しながら、「芸術って何だっけ?」と、考えてみました。
この次は、ベイトソンの芸術観をご紹介する予定です。
お楽しみに♪
追伸:最近、あちこちから、メールやら何やらで長い文章が送られて来るようになり、とても嬉しい反面、その返事を書くのが大変になって来てしまいました。文章を書くのは嫌いではありませんが、また気が乗らないことは、書けないという正直な性格で、返事が滞っております。が、できるだけ、その答になるようなことを、ブログに一括して書いて行くことにします。画家は、一個人のための存在ではなく、皆で共有する存在、このようにご理解頂ければ幸いです。今後ともそういう意味で、ブログを楽しみに読んで下さいませ!ご期待に応えられるように、頑張ります!
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