当時横浜に暮らしていた私は、さまざまな人生上の悩みを抱えていて、ある日そのことを父に打ち明けたことがあります。すると父はおもむろに地図を広げ、風水盤を横浜に置き、そして「今年中に西の方角へ進めっ!」と言ったのでした。それはまったくJR横浜線上であり、そのどの駅でもよいというお告げでした。季節は春、横浜線に乗った私は、桜が咲くプラットホームに降り立ち、この駅以外にないと確信したのでした。そこから私の相模原時代が始まりました。それが私の作家時代の開幕でもあったのです。
引っ越し先は、清く新しく生まれ変わるつもりで「清新」にしました。アパートは、ワンルームの安アパートでしたが、4畳のロフト付きで、2階の屋根の分もあって天井高は4m程。ほとんどロフトで寝起きし、6畳の一部屋がアトリエになったのです。そこで横浜の貧乏暮らしとは比べることのできないような大きな作品が生まれました。やがて、それまでの作品とそこで描きためた作品がまとまった3年後には、私は初個展をしていました。それが1995年。今思えば風水の予言通り、悩みはすべて解消し、運が開きはじめたのです。
しかし、その開運の理由は、風水だけのおかげではないのです。相模原には、ものつくりをさせてくれる磁場が昔から働いていると思われてなりません。淵野辺の図書館の奥の古文書室の整理の仕事をしていた頃の私には、相模原の「いろはのいの字」からおしえてくれる人ができました。それが郷土史を長年研究されて来た長田さんと中村さんでした。長田さん曰く、「この土地では女性が土地に生息する桑の葉で蚕を育て、それを糸に紡ぐ大切な仕事が任されていたために、昔から相模原の女性は働き者で、とても大切にされた」のです。そして中村さんは、「山梨のほうからの出稼ぎで来た男たちは、開拓農民としてこの土地を人の住める土地につくりあげた」とおしえてくれました。この相模原では、何かを生み出し、切り開いて生きていくというエネルギーが土地そのものに宿っているのです。私はその力を頂いて、それから百万馬力を発揮し、私の「紡ぎ出し、切り開く」芸術を育てていきました。
そのような力が宿った作家は、実は私だけではありません。長く住むにつれて、次第に多くの芸術家が生まれ、育ち、そして移り住んで来ることを知ったのでした。皆、この磁場を大なり小なり確実に感受しているかのようです。そして、そうこうしているうちに、まるで私のために用意されたかのように相模原市民ギャラリーがオープンしたのでした。なんという開運力!すでにその頃には、私は駒を進めて「清新」から「中央」に移り住んでいました。『相模原ゆかりの作家展』『近・現代の女性作家展 相模原女性画壇と女子美の100年』そして『大谷有花×川田祐子2人展』と発表させて頂くことになりました。相模原の中央の表舞台どころか、東京の中央区での個展発表。さらに、活動範囲はアジア、ヨーロッパに広がったのです。思えばそれは、何一つ不思議なことではありません。相模原の土地そのものが、「文化をつくろう、芸術家を育てよう」という、歴史はじまって以来の大仕事に乗り出していたのですから。私のアンテナの感度が良すぎたせいか?まんまとそれに動かされている私なのでした。
振り返って、私は桜が咲くこのJR相模原駅のプラットホームだけでなく、梅雨時の紫陽花や、やたら広い空、並木道の緑、遠くに見える丹沢の峰々、風通しが良く気取らない相模原の空気をずっと愛し続けています。その愛がある限り、私のアンテナが鈍ることはないのだと信じて疑いません。そして、私の場合その愛の力と、芸術を生む力とは全く同じ、あるひとつの場所から生じることもここに記しておくことにします。