画家川田祐子は、約20年間、画廊での個展やグループ展、美術館での企画展、ワークショップ、作品収蔵、大学機関での講師、公的機関でのシンポジウム等々、画家として数えきれない程のチャンスに恵まれて、活動することが出来ました。これらは、私の力をはるかに超えた、多くの方々の尊いお力添えの賜物、一つ一つが奇跡の積み重ねです。今振り返り、感謝の気持ちで心が震える思いです。
しかし、現実的には2008年まで、個人サポーターによって、制作室と生活費の支援があったため、画家としての活動が実現していました。ところが、複雑な事情が起こり、支援の手を離れて独立した頃から、思うように活動ができなくなっていました。名目上の会社形態にして、銀行の融資も受け、美術作品を広く普及する事業も展開しようと努力致しましたが、力及ばず、負債を膨らますことになるばかりでした。
それでも、2008年に第21回美浜美術展 福井県知事賞、2009年第22回美浜美術展 準大賞、平成21年度女子美術大学制作奨励賞を受賞し、苦境を切り抜けようと精一杯頑張りました。
しかし昨年2011年の大震災のショックで、自分自身画家として生きる事のリアリティを感じなくなったこともあり、一時は制作を離れて生きる術を求めて迷走することとなりました。経歴を伏せ、アルバイトや内職に奔走することもありました。
この度長野への移転は、実はそうした生活上の事情から、画家としてのこれまでの経験を後進の育成に役立てる生き方にシフトしようとして行ったことなのです。しかし、運命は私が画家であるよう引き止めたのです。
まず、昨年12月に入ってから、横須賀美術館から所蔵品展への展示作品借用の依頼が来ました。引っ越しの手続きをしている矢先のことでした。とても嬉しい反面、自分の画家としての置き所がわからないまま移転、長野から作品を送りました。
そしてとても衝撃的なことが、3月4日と5日に起こりました。
4日に、ある美術館から手紙が届き、それを確認したところ、2年後の開催予定の大規模な企画展の依頼が来ていたことがわかったのです。
その内容は、
会期:2014年1~2月
企画・会場:損保ジャパン東郷青児美術館
展覧会名:企画展「クインテットー五つ星の女性作家たち 1」展
内容:将来有望な5人の女性作家を紹介する展覧会
30~50代で、国公私立美術館の企画グループ展等に出品経験があり、将来有望な女性作家5人を選出。出品作家は、当館の5人展を経て、近い将来、国内美術館で個展が開催出来る可能性を秘めた、実力作家。(企画書より引用のママ)
私の心は大きく揺れました。長野に来てからは、絵画制作を寸暇をみつけて細々と続けられたとしても、発表活動はしばらく諦めようと思っていたからです。真剣に、これまでの経験を美術教育に活かすよう、教育・研究に身を捧げようと心に決めていたのです。ですから、そのような良い話しに甘んじて決意を覆してはならないと、その時はそう自分に言い聞かせました。
しかしその翌日、大学機関から「最終の受理が通らなかった」という失意の連絡を受け取ったのでした。昨年9月から丸半年をかけて厳しい審査をくぐり抜け、最後まで残っていたのですが、全くの白紙になってしまったのです。
私は、この時二つの矛盾した心が、自分の中にあることをはじめて実感しました。
「私はやはり画家として生きて行くことを許された」
という気持ちと
「これからどうしよう」
という途方に暮れる気持ちです。
経済的に困難な状況に解決の目処がつかないからです。
その足で、偶然、国立国際美術館の女性作家作品コレクション展に出会ったのです。運命を感じずにいられませんでした。どれほどその時に励まされ、心を強くしたことか...。。今日私がこうあることも、全てこれらの人たちの少しずつの努力の積み重ねで可能になっていることかもしれないからです。
「私も勇気をもって『画家』として立ち向かおう」そう決意できました。
長野に移転したことについては、今では何も後悔はありません。もし相模原に居続けていたとしても、経済的状況は何も変わらないからです。引っ越しに費用がかかりましたが、むしろその分、家賃や生活費を抑えることができ、アトリエも少し広くなったのです。制作に集中する環境は充分に整っています。また、採用されなかったことを恨む気持ちも全くありません。この経験は一つの大きな自信に繋がっています。最後まで私の業績を深く理解し、推して下さった人がいたのですから。
新作制作もとてもはかどっています。しかし.....。
この続きは明日に持ち越します。