個展が始まり、見て下さった方々からご質問、ご感想を頂いております。
ありがとうございます。次の制作に向かう大きな励みになっております。
作品を買って下さる方々や、
ご寄付を送って下さる方々のお陰さまで、
今週末に上京し在廊する見通しもついて来ました。
大雪の影響なども考えなければなりませんので、あくまでも予定です。

ご感想等、個々になかなか早くお返事が出来ず、本当に失礼しております。
本当に書きたい気持ちが高まらないと文章が書けないので、お許し下さい。

中には、凄く書きたかった内容を教えて下さるお便りもあります。
作品を購入して下さった方から、このブログにコメントでこのようなご質問がありました。

「最近の作品はハッチングのみが多いようですが、
スクラッチングをしない理由について、
差支えなければお聞かせいただけないでしょうか?」

「スクラッチ作品は、もう制作しないのですか?」と聞かれることが度々あるので、
ブログにそのうち書こう書こうと思いながら、今日になってしまいました。

今回の個展に出品した新作は、全て面相筆の極細1種類だけで、
画面に線描を埋め尽くす方法、ハッチングで制作しています。
その前までは、スクラッチを少し施してあるのもありました。
スクラッチをしないのは、いくつか理由があります。
頭の中で整理しながら、書き出してみました。

 

1.陰と陽
中国の思想には、宇宙を陰と陽に分けて、そのバランスで物事が生成したり消滅して、
変化するという考え方があります。
それを象徴するのが、太極図というマークです。
「陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる」
「光のあるところに必ず影が出来、暗闇の中にこそ、光が見える」
私にとって、スクラッチ技法は絵具を掻き落し、マイナス方向に進む陰であり、
ハッチングは線描を積み重ねて行く意味で陽の行為です。

この二つのバランスを少しずつ調節しながら制作への意欲を高めたり、
作品を変化させています。
スクラッチ技法は、2002年に発表した『風景の襞』という作品で、
陰が極まったと感じましたので、
その後2003年のKANEKO ART個展では、
ハッチング作品(『WHEREIS THE MOON』画像1:向かって左)と
スクラッチ作品(『WHEREIS THE MOON 月影』画像1:中央)とを
2枚並べて平列して楽しむ作品をつくりはじめました。
sagamihara-5

画像1

それを一つの画面に混ぜるようになって、両方のバランスがとれたのが、
『A THOUSAND WINDS』(東京国立近代美術館所蔵、画像2:向かって左)とか
『雪波』(個人所蔵、画像2:向かって右)です。
この陰陽のバランスが極まったので、ハッチングだけの方向に少しずつ傾けながら、
やがてスクラッチがなくなりました。

クインテット展示5

画像2

2.困難」や「限界」の創造性
活動初期の1996年頃には、実はまだスクラッチを発見していなくて、
不器用にハッチングをしていた作品があります。
その時は、自分では納得出来るような繊細な線が描けませんでしたし、
とても苦労しながら大きな画面を必死になって埋め尽くそうとして息切れしていました。

それがやがてスクラッチの発見で、思った以上の細かい硬質な線と能率の良さで、
制作が快調に進むようになりましたが、私の心の片隅のどこかに、
筆の描線で挑戦してみたいという意欲がどんどん膨らんで行きました。

なぜかというと、難しいことや出来にくいことをしている方が、
少々の未熟さには代えがたい高揚感があり、
創意工夫や問題解決のために無心で頑張れるからです。

以前、このブログに『「困難」や「限界」の創造性』という記事を書いて、動画を貼りましたように、
出来やすいことや、すぐ褒められてしまうことをやっても、その喜びはあっという間に冷めて、
人はすぐに虚無感に陥ることが多いと、少なくとも私はそう感じて来ました。
出来て当たり前となってしまうと、喜んで見て下さる人も次第に減って行くものです。

3.工芸的
スクラッチは、確かに誰でも出来るものではないので、
沢山の人に知られるまで、ずっとやっていても構わなかったのかも知れません。
しかし、その先にあるのは、「名匠」とか「超絶技巧」と呼ばれる作家像です。

名工は、必ずしも工芸の世界だけになるのでなく、
絵画の世界にも、そういう世界があることは確かです。
例えば、私の眼からは、日本の団体展で見る作品はほとんどが、
そういうことを目指しているように見えます。
その人なりの保守的な美しさへの完成が主な目的で、
それは自分の技能を高めるためにある作品と言えるでしょう。
もちろん、それも日本文化への貢献につながるかもしれません。

しかし、私はその道を選びませんでした。
私が向かっている道は、この道ではないとある時気付いたからです。

私は、「美術がわからない」と言って下さる人が、私の作品との出会いから
「わかるようになりたい」と、わかりにくい世界でも少し我慢して、
少しでも興味を持って見てみようとして下さるようになることが一番の手応えなのです。

そして「誰かが良いと言っているから、これは良い作品らしいので見に行く」
という人が少しでも少なくなって、
代わりに「誰もまだ評価していないけれど、私にはこの作品の価値がわかる」
という人がどんどん増えて行くことが、
将来の日本を良い方向へ変えて行くことになるはずだという確信があります。

ですから、工芸的な側面で見る人を喜ばせすぎないように配慮するようになりました。
私にとっては、有名になりたいとか、稼げる作家になりたいというのが目標ではありません。
それは単なる手段で、その向こうにもっと向かうべき目標の高みがあると信じています。

 

4.自由へ
「誰もまだ評価していないけれど、私にはこの作品の価値がわかる」
という意見を持つ人が人口の半分以上を占めるようになっったら、
日本の社会は断然変わると思います。

それは大袈裟に言えば、「絶対主義というものに二度と脅かされ得ない社会基盤」
をつくることになるからです。
簡単に言えば、「戦争をしよう!」という意見が社会の中で多数になって来ても、
自分が戦争をするべきではないという信念があれば、言いなりにならないということです。
そういう気配をいち早く察知して、大きな動向になる前に、早めに火の元を気をつける、
敏感で繊細な意識を持てる人が多ければ多い程、その時こそ「戦後」が終わり、
成熟した社会になると思うからです。

現状は、マスメディアという力が大方の人々の認識、常識、判断力を左右しています。
教育も個人の判断をなるべく許さないように意図されているようにしか私には見えません。
芸術は、政治的にプロパガンダとして利用された残念な過去があります。
そういう活用を二度とされないためにも、
絵画の側からむしろ積極的に人々の常識を覆したり、
可能性を広げる挑戦をして行く使命があるように思います。

見る側が、個人として成熟した目や認識を持てば、
自分の自由意思、自分なりの哲学を持ち、
かつ社会全体の共通意識ともバランスをとって、
ものごとを一人一人の判断、意見を言える、かつ自分の意見とは違う意見にも耳を傾ける、
本当の意味での話し合いが出来る社会が実現して行くのではないでしょうか。
今もし個人の意見があったとしても、
テレビや新聞の擦り込みであったり、
誰かの意見の鵜呑みであったり….。

実のところ私にしても、ちょっと気を緩めると、
そういう意見を平気で自分の意見だと勘違いしていることが多々あります。

すごく難しいことだからこそ、
多くの評価の定まらない現代作家の作品に直接触れて、
自分の認識の甘さを実感したり、鍛える必要があるのです。

ですから、社会が常識の範囲で受け入れやすいことや
報道されやすいことをする制作活動は、
社会を保守的な方向へと閉じ込めていくばかりで、
社会の創造力、イノベーション力を萎えさせてしまいかねない。

最近の作風は、そういう願いを込めたものに変わって来ています。
空は、誰のものでもなく、万民に無償で与えられています。
さまざまなインスピレーションや気づきを降り注いでくれています。

 

5.経済的、環境問題の事情
スクラッチをするきっかけになったのは、版画の経験からの発見だけでなく、
ホルベインスカラシップで、1年間50万円分の絵具を頂いて、
思う存分実験出来たというチャンスに恵まれたからです。
このチャンスを頂けなかったら、
思い切って大量に絵具を使うような手法に挑戦することはなかったでしょう。

絵具の大量消費だけでなく、平滑に塗るための刷毛もかなり摩耗します。
カッターの替え刃をどれ程捨てたことか….。
今は、危険物を捨てるのも大変難しい時代でもあります。
ホルベインさんから提供された絵具は、初期の大作制作に全部使い切ってしまい、
今は、この環境、厳しい経済事情に即した制作というものを活かすことが、
リアリティのある制作ということになりますし、
息の長い制作につながると判断しています。

 

6.内から外へ
スクラッチは、内面に向かって深く掘り下げるという意味付けをして、
「自己の探求」というテーマがありました。
制作方法自体に意味があったのです。
しかしその探求をしている内に、
なぜか「外の世界に内面世界が投影される」という出来事が次々に起きて来て、とても驚かされました。
それはことあるごとに、このブログでも書いて来たと思います。

作品は制作者だけでなく、見る人の自己を映す「鏡」であるとずっと言って来ました。
しかし、作品だけでなく、
自然を含め、出会う人々、人工的なものであっても、
「もの」に限らず「こと」にあっても、
眼に映る全てのものごとが「鏡」であると気付いたのです。

描く対象が、外の何であっても、自ずと自己が投影されますし、
見る人もそれを即物的に見るだけでなく、
自分の人生に置き換えて見ることもしているのです。

スクラッチの内に向かう方向を経て、
逆転することもまたそれまでのスクラッチの意味を、際立てることになるとも思い、
敢えて今はしばらくスクラッチを止めていることもあるかもしれません。
「ある」が必要とされるのは、ずっと「ある」を主張している間ではなく、
むしろ「ない」となった時だからです。

スクラッチの良さを、理解して下さる人が、
だんだん増えて来て下さることは、私も嬉しいです。
ですが、私から見ると、だいたい人々が目新しいものを見た時には、
すぐには判断出来ないのが普通で、
大半の人が「あれは良い」と思う頃には、
作り手は、もう次の先の方のことをやっているくらいが、
ちょうど良いと思っています。

私は、将棋や囲碁は全く自分からはしませんが、
名人と呼ばれる人たちの話しをとても興味深く読んで来ました。
知れば知る程、絵画制作と同じです。

最初に作戦や型があって、それを実行して行くという方法もあるかも知れませんが、
作戦が先にあると、相手にすぐ読み取られてしまい、裏をかかれてしまうのだそうです。

強さとは作戦も何も持たずに旅を楽しむようなところから生まれるのではないか、
もっと言えば、相手とともにその旅を創り上げて行き、それを苦しみながらも、
相手こそは自分の化身であるととらえ、
その化身を知り尽くそうと自己を掘り下げる楽しみが出来る人こそが、
どのような精神的重圧にもものともせずに、
自分の理想を実現していくことが出来るものなのかもしれません。

私と見る人、制作もまた、そういう関係にあります。
見る人や環境によって、私も作品も変化して行きます。

開催中の個展の情報を再度お知らせ致します。
どうぞよろしくお願い致します。

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川田 祐子 展 ー 空は知っている ー
2015年1月10日(土) − 2月1日(日)
12:30〜19:00(土曜、日曜〜18:00) 月曜休廊

これまでの自己の内側へと重層性、深さを突き詰めて行く制作から、
今はより軽やかさ、純粋さ、自由へと向かっています。
このような変化は、制作への情熱が高まり、時が止まった瞬間、
何気なく仰ぐ空が、私にそっとささやいてくれることなのです。

KANEKO ART TOKYO
〒101-0032 東京都千代田区岩本町2-6-12 曙ビル1F
TEL : 03-6240-9774

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info@kanekoart.jp
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無法の空
2014
hatching / acrylic gouache on canvas
162×194cm