8日に『クインテット展』の作品集荷が終わり、ホッとしたので、少し休むことも考えたのですが、
結局次の日から2月の個展に出品する作品を制作し始めました。
今はF3号2点、8号、30号の4枚を平行して制作中です。
1日の中で時間で区切って、制作する作品を変えています。
これまでは、大きな制作が終わると、旅行をする習慣がありました。
しかし今回は、あまりそういう気持ちにはなりませんでした。
してみたいことを自分に聞いてみたのですが、今はその時期ではないようでした。
そしてやはり一番したいことは、制作でした(苦笑)。
その次にしたいことは読書。
制作と読書をしてしまうと、1日で残る時間がありません。
それですぐに次の日になってしまいます。
そしてその次の日もまた同じ1日です。
私はそれで十分満たされていて、それ以上に何かしたいということはありません。
今読書の関心は、もっぱら宗教心についてのようです。
オットー著の『聖なるもの (岩波文庫)』を少し読み、思い出したように本棚からチャールズ・テイラー著の『今日の宗教の諸相』をまた再読しています。
なぜこういう本を読むかというと、私は雨が降っていない日は必ず近くの神社に散歩し、日によっては2カ所行くこともありますし、実は行きつけの神社が最近3カ所(厳密に言えば道祖神を加えるとそれ以上)に増えて来たからです。
この近辺は、犬も歩けば神社に当たるくらいに神社が至る所にあります。
前を素通り出来ないような空気があり、必ず手を合わせたくなるのです。
そういう宗教心というのは、一体何に由来するのか?
そのことについて考えているところなのです。
私は、特定の宗教を持ったことはありません。
それでもなぜか神社では参拝した方がいいと思ってしまいます。
誰かに教わったとか、強制されたわけでもなくです。
手を合わせて、最初のうちはお願いをしていたと思います。
それがいつの間にか、感謝に変わりました。
その内に、最近は静かに黙って手を合わせるだけになりました。
そういう自分の気持ちの変化が何なのか興味を持つようになりました。
それはある決められた宗教の儀式的なしぐさとは違うように思えるのです。
私には、そういういわゆる一般的な宗教には興味がまったくなくて、
心から手を合わせたいという気持ちが大切に思えて仕方ありません。
安定した収入がなく、その日暮らしの生活で何とかここまで制作して来れたこと、
そしてたまに思いもよらない方から、
あるいはまったく面識のない方からご寄付が振り込まれる生活を続けていますと、
とにもかくにも、生きている、生きられるということの感謝の気持ちが、
並大抵の感動ではないのです。
生活のさまざまな場面で、「ありがたい」という気持ちが沸き起こります。
そしてそのありがたさを自分一人で沢山抱えているともったいない気持ちがして来て、
神社で手を合わせるのかもしれません。
そして、その感謝の気持ちを制作の意欲に向けるのです。
ですから、感謝の報告を神社にするのをある時からやめたのだと思います。
お礼をして気が済むことではないと思うようになったからです。
「感謝」を作品にしてお返しをするのが私の役割です。
それでも私は神社で手を合わせずにはいられません。
こういう生活は、ここに越して来てからのことです。
長野には、そもそも善光寺という宗教的なシンボルがあります。
このお寺そのものが、「宗教心に目覚める」という意味を持っているのです。
「牛に引かれて善光寺参り」というのは、
宗教心の全くなかったおばあさんが、
たまたま通りかかった牛に引っ張られるようにして、
善光寺に辿り着き、
そこで回心して信仰深くなったというお話から来ている言葉なのです。
その「たまたまひっぱられた」という偶然性にも重要な意味がありそうです。
理屈では言い表せないことこそが、宗教の役割ということでしょう。
何でも理屈に当てはめ、当てはまらないことには触れないというのが近代的なものの見方なのかもしれませんが、
その当てはまらない部分を切り捨ててしまうと絵は描けないように思います。
絵画制作は、もともと呪術的な行為と不可分であるように思えてなりません。
そういう不可思議な神秘性が抜け落ちたような絵画は、
確かに目新しいかも知れませんが、
とても薄っぺらい、非人間的なものになってしまうのではないでしょうか。
1枚の絵に生活の大半の時間を使って描き続けるには、
浅い動機では長く続けることはできません。
自分の内面の奥の奥の微妙な襞を丹念に汲み取っていくような感覚というのが、
私の場合とても重要です。
しかしそれにはかなり細かい気配りが必要で、それを支えるのが、
何か理屈では理由のつかない宗教的な厳かな気持ちなのです。
そういう自分の宗教的な体験を裏付けるような本を読みたいと思っているだけかもしれません。
ちなみに、チャールズ・テイラーもオットーも、
その著作の最初にウィリアム・ジェイムスという人を紹介しています。
以前は素通りして読んでしまっていましたが、
今回ウィリアム・ジェイムスについてとても興味を持つようになりました。
この人はプラグマティズムという著作を残しているのですが、
この人の経験主義的な考え方や多元論的な物の捉え方が、
実はヨーロッパはもちろん今のアメリカに大きな影響を与えていることを知り、とても驚きました。
これまでかなり偏った目でアメリカを非難していたかも知れません。反省です。
タイミングを見て『プラグマティズム (岩波文庫)
』や『宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)
』を読みたいと思っているところです。
ウィリアム・ジェイムスは、「退屈な習慣」としての儀礼化した宗教ではなく、
「孤立した状態にある個人が、何であれ彼自身が神的な存在と考えるものと自分が直接向きあっていると理解するときに、生じているような感情、行為、経験」という本来あるべき宗教心について取り上げているとのこと。
オットーには「ヌミノーゼ(=聖なるもの)」という彼独自の概念があるのですが、
その宗教心を細かく分析している著作『聖なるもの』と合わせて読むことで、
私自身の中の聖なるものを考えながら制作をして行きたいと思っているところです。