しばらく、ブログを書いていなかったせいか、
その間にお便り、作品のお問い合わせ、お誘い、贈り物、
そしてご寄付を頂きました。

皆々様、ありがとうございます。

5月の連休前に、新作1点を完成し、画廊に送りました。
作品について少しだけ文章を添えました。
詳細は下記画像をクリックでお読み下さい。

beyondmountains@wp

山越えて
2014
scratch/hatching
acrylic gouache on canvas
53×72.7cm

連休が終わって、善光寺界隈が少し人が引けた頃に、善光寺参りに行きました。
日頃の感謝の気持ちをご報告することができました。

人づてに知り合った長野にお住まいの女性と、門前でランチを頂きました。
ごちそうさまでした。
とても良いお店でした。江戸時代からの由緒ある佇まいで、その風情を楽しむことができました。
建物は、複雑で奥へ奥へと廊下が続き、中庭を楽しむ小さな部屋がいくつもある造りでした。
合理的にできている最近の住居に飾る絵と、
このように複雑に出来ている風情のある建物に飾る絵とは、
自ずと違って来るのではないかと考えさせられました。
さまざまな、建物の経験を多くするよう心がけようと思います。

善光寺参りを機に、善光寺について、少し調べました。
善光寺の休憩所で、
「御開帳」についてのビデオが放映されていたのがきっかっけとなりました。
さっそく『浄土三部経』を読みました。
特に『観無量寿経』をとても興味深く読むことができました。

これまで禅ばかり関心を持っていたために、
世俗的な仏教を少し揶揄していたかもしれないと反省しました。
絵画表現を禅的に追求し過ぎると、
ミニマルな形のないものに行き着きます。
その反対側に大きく振れるようなダイナミックな考え方が、
「浄土」にあると感じました。

岩波文庫の中村元氏の翻訳に感動したので、
同じ氏の翻訳の仏教関係の本を少しずつ読んでいるところです。

読書は、その他にヘルマン・ヘッセの小説『シッダルタ』『デミアン』
を続けて完読しました。
今の自分を重ねて読むことができ、
とても良いタイミングで出会うことができました。

とりわけ『シッダルタ』の河の表現がとても素晴らしかった。
本文はここでは引用しませんが、私の解釈をご紹介すると、

河は、河の向こうに行く人にとっては、渡るに困難な邪魔なものなのですが、
河の渡し守にとっては、生きて行く糧を得るために必要なものです。
ある人は、河の美しさを喜んで眺めることが出来ますが、
ある人にとっては、辛く厳しい試練です。
河で修行をすることもできれば、河に溺れることもあるのです。
幸と不幸とは、そのようにあるひとつの両側面であると思われます。

河は海を目指して流れて行くわけですが、
海に行ってしまったら、それは河ではなくなります。
河になる以前は、
例えば雨であったり雪や氷であった時もあったのです。
そうしたさまざまな移り変わりの、ほんの一瞬が河に過ぎません。
そのほんの一瞬の河は、常に河であり続けます。
河は一瞬と永遠が同時であるということを教えています。
私たちは、「今」ここが「永遠」を生み出していることをなかなか自覚できないものです。

これらのことは、いろいろなことにあてはめて、認識する必要性があると思われました。

『シッダルタ』『デミアン』と読んでみて、感じたことは、
ヘッセが脱近代への道標として、仏教や神秘思想に向かっているということです。

合理的で物質に恵まれ、何不自由のない生活を与えられ、
個として生きる現代人が喪失しているもの。
それはおそらく、「無」とか「滅私」によって、
些細な「有」や滅しようと思っても滅私しきれない「自己」に対峙し、
はじめて感受出来る「感謝」や「至福」「人間愛」という経験だと思います。

なるべく不便で、ものを持たず、簡素な生活を心がけ、
節制して良く耐え、孤独の時間に善く考え、
その上で極々たまに与えられるものに、
心から感謝出来ることが、どれほど幸せで生きる力になるか...。
それが大きな意欲や意思を育て、
至福の実りをもたらすように思えてなりません。

GWも関係なく手がけた30号の作品がほぼ完成し、
来年の個展のDMに出来そうな手応えを感じているところです。
今は130号の大作を手がけています。

地塗りの磨きで疲れた身体を癒すために、
はじめて長野の温泉を訪ねて来ました。
長野市の隣の須坂市の山の上の方に、温泉ランドがあり、
最寄りの長野電鉄駅で販売されている往復温泉チケットを利用しました。
土地の恵みに感謝しながら日帰りで帰って来ました。

温泉ランド

このところ長野は、夏のような暑さが続いていますが、
朝晩は20度以下になるので、
早朝4時半起床で午前中に大作を手がけるようにしています。
鳥たちが、ちょうどその時間に起こしてくれるのです。
まだ鶯も来ますが、初夏を告げるカッコウも鳴き始めました。
夕方には、蛙が鳴きます。
そういう日には、夜に通り雨が降り、ぐんと涼しくなります。

昨日は、ちょっとだけショックでかつ重要なことを知る経験がありました。
実は、昨年の骨折の箇所はすっかり良くなっているのですが、
なかなか階段を登るのが困難なので、おかしいなとは思っていたのですが、
夜にベッドの上で右足のすねを上げ下げして筋肉を確かめていたところ、
右ひざのお皿が、ぐしゃぐしゃじゃりじゃりと変な音がするのです。
左は何も音がしないので、これは大変と念のため病院に行って来ました。

診断の結果「半月板損傷」ということでした。
そして大腿骨の頸基部を折った時に、その部分の痛みはなく、
むしろ膝がとても痛かったことを思い出しました。
つまり、折れていつもとは違う動きが起きたために、
半月板が持ちこたえられなくなって、
その時に壊れてしまっていたようです。
壊れてしまった後は痛みがないそうで、ぴったりあてはまります。
ただ、その破片が、膝の中に食い込んだ場合に、
とても痛くなることがあるので、要注意だとか。
しかし予防策も特にないのだそうです。

原因はわかったのですが、残念ながら「自然治癒」がない場所で、
かつ治療方法もないということでした。
筋肉を鍛えるとか民間療法のようなものはあるようですが、
あまりおすすめしないと言われました。
とにかく現状維持、下手なことをしないというのが、
最善の方法という話しでした。

今のところは、階段が不便なだけですが、
登れないとか歩けないというわけでもないので、
ただそのままを維持するしかないようです。

それは一面ではショックなことではありますが、しかし私は少し異なり、
急に感謝の気持ちで胸が一杯になり、涙が込み上げて来ました。

「歩けるって素晴らしい、ありがたい!」そう思うことができたからです。
骨折が治ってしばらくして、すっかり忘れていたことをまた思い出したのです。
どうして、人間はこうも幸せに包まれていることをすっかり忘れて見失ってしまうのでしょうか?

「普通に歩けて制作出来る今日1日に、まずは感謝しよう。」

そう思った瞬間に、すっかり幸せになっていました(苦笑)

しかし、1箇所がおかしくなると、それがまわりに波及する、
ということも身をもって感じる経験ではあります。
つくづく身体は大切にしないとこれからますます大変になりそうだと、自省しました。

骨折は治っても、膝に力が入らないので、筋肉がなかなか鍛えられません。
すると、寝ていても決まった姿勢しかとれないので、
腰に負担があり、長い時間寝ていられなくなる。
睡眠不足になると、自律神経失調症が起きて、
肩こりやのぼせが起きやすい。
ということで、身体の都合をよく確かめて制作を進めなければなりません。
するとこれが、案外「一病息災」で、
長生きの秘訣になるかもしれないとも思ったのです。

こういうことでもないと、私は制作のために身体を酷使してしまいかねませんから(苦笑)。
そしてこういうことがあるから、温泉に行って疲れをいやしたり、
身体によいものを食べて、健康を維持出来る。
痛い思いや、ままにならないことすら、
感謝出来るようになったことが、
まずは嬉しいのでした。

そして、昨年までに比べたら、何と穏やかな気持ちで制作出来る毎日なのでしょう!
これも長野に来て、さまざまな方々の励まし、ご寄付、作品買い上げのお陰様です。
こんなに素晴らしい制作の毎日になると、誰が予想出来たでしょう?
私自身も想像出来ていなかったことです。

このご恩に報いるためにも、命尽きる時まで、
自律して、充実した制作を続けて行くことが、私の目下の指標です。

そのためには、さまざまなことに気を配り、自制し、耐え、よく考えて、
1日1日、今この瞬間を大切にして感謝しながら生きて行きたいと思います。