先月、選挙に行った帰りに、目の不自由な人とすれ違いました。
その人は、少し遠くに見えました。
その存在に気付いた瞬間に「あっ、忘れた」と言うと、もと来た道を戻りはじめました。
投票券を忘れたようでした。
とても悔しそうに、急ぎ歩きをしていました。
私はその人と同じ道を歩くことになりました。
しかし、その人はあるところから引き返し、それからまた進んだり戻ったりし始めたのです。
どうやら道を失って迷っているようでした。
私は「道がわからなくなりましたか?」と声を掛けました。
するとその人は、「わかりますから」と余計なお世話は無用と言った具合です。
私は内心「(いじっぱりな人なんだ)」と思いましたが、やはり放っておけません。
近寄らずに、遠くから少し声を大きくして「途中に引っ越しトラックが来ているので、気をつけて...。」
その人はそのトラックに杖があたったので、その手前の細い路地をみつけられなかったのです。
細い杖がトラックのタイヤを確かめたと思うと、その人はその路地に消えて行きました。
この出来事は、一体何だったのだろうか?と帰ってからしばらく考えていましたが、いつのまにか忘れていました。
ここで話しが唐突に変わりますが、私の作品にはこの数年、細い枝のようなものが描かれるようになりました。
それは最初は黒かったのですが、最近は白くなって、根のようにも見えます。
「一体何だろうか?」と自分でも考えるようになりました。
もともとは網目組織だったものが、次第に変形して来ているとは思っていました。
2000年から2006年ころまでは、この網目組織が、人によっては丸い玉となって見えていたようです。
2007年ころから次第にその玉が打ち消されて行きました。
その代わりに、枝のようなものが伸び始めました。
それは今制作中の作品にも見られるので、自分でも何のためにこれが出て来るのかよく考えてみることにしました。
別に枝や根や網目を描きたいわけではないので、消そうとします。
しかし、これからはじめないと制作が前に進みません。
そして不必要なところは消すわけですが、すっかり消すと言い知れぬ不安がよぎるので、分からない程度に残しています。
ですからふと、あの目の不自由な人の杖と、これが一つのこととして繋がって見えたのです。
私のこの表現は、画面を視覚ではなく、触覚のように把握していることなのだと。
思いつきで筆を置いているのではなく、画面を全て包み込んでから自分の行くべき道を探り当てていたのです。
それは決して偶然の行為とはいえず、アクションでも、ハプニングでもなく、
何らかの意志があると言う意味で、あの家路を急ぐ目の不自由な人と同じ心境です。
そこに注文してあったジル・ドゥルーズの『千のプラトー(上)』が届き、またまた驚きました。
冒頭から、「リゾーム(地下茎、根茎)」という聞き慣れない言葉の説明が記載されていました。
ドゥルーズは、従来の「ツリー型」の世界観と対比させて、この「リゾーム」によって来るべき世界を予見しているそうなのです。
「この表現は『触手としての枝あるいは根』、つまり『リゾーム』が私にも忍び寄り、制作させているのかもしれない」
そう思わずにはいられませんでした。
ジル・ドゥルーズ、恐るべしです。
さて話しが再び戻り、あの人のいじっぱりが、ようやく自分のことのようにして理解出来たのでした。
あの人は、正確な道を教えてもらいたいなどとはこれっぽっちも思っていません。
あの人は、自分の視覚以外の持てる能力で、自分の行くべき道を探り当てる事を楽しみたいのです。
それがあの人にとってかけがえのない自分自身の実存を確かめる瞬間なのですから。
親切というのは、なかなか難しいものですね。
時には黙って見守ることも親切というものなのかも知れません。
杖がその目の不自由な人を導いていたのではなかったのです。
私もまた、その人と杖に導かれていたのでした。
そういう絵にしたいと思ったのでした。