私の制作方法は、自分というものを取り出すための仕組みが組み込まれています。つまり自分らしい作品というのは何なのかは、すぐには答がみつからないので、その代わりに「自分らしい方法」から入って行ったということがあります。それは観想法や瞑想にもどこか似たものになっていると思っています。それをしながら自分らしさをみつけて来たところがあるのです。
つまり、最初に自分らしい絵があって、その下絵や題名を用意することから始まるのではなく、細かい線描を毎日繰り返すという、単調でながらも自分にとっては最もやりやすい作業をすることで,自分を引き出して行くという方法です。これは自分らしい方法であると同時に、自分というものを打ち消して行く両方の効果があります。それはまるで反対のことのようですが、そうとは言えないのです。自分を打ち消すような作業の中にこそ、ふつふつと、自分のようなものが見えてくるものです。どうしてもこうしたいという自分が見えて来ます。でもそれが本当の自分かどうかを見極める必要もあります。
描かずとも、期せずして何かが見えて来るわけで、それをうまく取り入れることと、それによって違う方向に作品が向いて行ってしまいそうになり軌道修正することもあります。軌道修正して自分の向かうべき方向を定め直すこともありますが、時には、偶然に導かれて、自分らしさを手放して、空に吸い込まれるようにして描いた時に、その先の自分が見えて来る、ということもあるのです。
探そうとしなければならないのに、どこかでそれを手放さなければ上手くいかない。
なぜ手放すのか?それは自分というものが、実は自分でないものまでを含んだものとしてとらえなければ、制作が成り立たないように思えるからです。自分というある固定したものをもし決めたとすると、そこから様式化ということが始まるものではないでしょうか。そこには、幅のない自分というものに与えられる幅のない表現が待ち伏せていそうです。
自分だけれど、自分を乗り越える力、そういうものが制作に必要になって来ます。
それを「祈り」と言うのかもしれません。
祈りとは、自分の想念を大きな力にゆだねること、手放すための知恵ではないでしょうか。
「お願いします」と祈るわけですが、過大に見返りを期待することは、祈りではないような気がします。
そして祈りは、諦めかかったそのギリギリで本当の祈りになるような気がします。
だからこそ、大きな力に手放せるのでは。
そして手放していない祈りは、祈りのようで祈りではないように思われます。祈りでなければ、実現どころか、欲望に足元をすくわれ、ますます混乱へと巻き込まれる場合もありそうです。だから、本当に手放す祈りにしなければならない気がします。
だからと言って、祈りは、何も努力しないことというわけではありません。そのギリギリの諦めに自分を追い込んで行くまでが、自分のできる努力で、その先に祈りが与えられる、あるいは祈りというものが起きてきます。
私は「大きな力」と書きましたが、あなたはあなたの言葉でそれを何だと思いますか?
仙人や神様のような人の姿を想像しますか?
私は、「私の中の自分を越えた力」という言葉を思い浮かべます。
自分を越えているので、自分ではないかもしれません。でもそういうものが、私という存在のまわりにふわふわっと取り囲んでいて、まだ肉体化しないけれど、包み込んでいるみたいな気がします。それでちょっと私の意識が高まると、少し肉体に近寄って来たり、自分の細胞としてほんの少しだけ取り込むことができるのではないかと思うのです。そしてただ付着するというのではなくて、それが細胞に取り込まれると、さーっと全ての細胞が化学反応を起こして、全く新しい細胞に更新することもある気がします。それが、やがて指先から少しずつ作品に流れ込んで行きます。
そして、作品に流れ込んだこのふわふわっとしたものが、それを見るに人に何かを呼びかけて、あるいは共鳴する人を呼び寄せるようにして、私の制作が成り立つようにしてくれているのかもしれません。
それらは全て、バラバラのことではなく、全て一つのことであって、自分を越えた領域の話しです。
あるいはそもそも自他の区別がないのが、この世界かもしれない、そう生きることを制作が求めているかのようです。
ただただ自分を超えた力に祈り、それを手放し、今自分ができること、しなければならない制作に力を向けるしかありません。
随分前に祈ったことが、本当に忘れた今頃になって、作品化し始めることもあります。
祈るけれど忘れる。この手放すというのが難しいから、時間がかかるのかもしれません。
先日、家の斜向いの家の用水路から水が溢れていました。
水が道路を流れているというただそれだけのことですが、
何か重要なメッセージかもしれないと自分なりに解釈してみることにしました。
「良いことが水に流れる」と思うこともできれば、
「良い流れがこちらに向かって来た」という解釈もあるかもしれません。
その時はその二つの解釈しか気付くことができませんでした。
ところが今日この記事を書いて気付いたのは、それに加えて
「水に流す=忘れる・浄化する」ことを教えているのかもしれないということです。
その水はとてもきれいな水でした。全てが清められるように流れてくれたのかもしれません。
たしかにそれは「溢れ、そして流れていた」というだけの事実に過ぎないかも知れません。
しかしたとえそれが些細なことでも、「身の回りの全てを自分の味方につけるようにして、自分を超えた力で制作に向かう」そうありたいと思いました。
自分を超えた力とは、また身の回りの、例えばこの記事を読まれている、あなたの協力も含まれていることは言うまでもありません。
追伸:今年は、個展の予定を入れることができなかったため、昨年のような作品販売からの収入の見込みが極めて厳しい状況です。
今月末にその試練の山場がやって来ます。
どうか引き続きご寄付、ご支援の程、よろしくお願い申し上げます。