「桜雲、畢る(by @HIMA_person)」京都でつぶやかれた「畢る(おわる)」という言葉。
「畢竟(ひっきょう)」、とどのつまりという意味で古い著書に見かける漢字です。
なぜか華やかの「華」に似て、桜の終わりに似つかわしい漢字。素晴らしい文字文化です。
本日は、この「畢る」という言葉から触発されて、私の作品の制作の終わりとは何か?
について、Twitter上でつぶやいたことをまとめて記すことに致しました。
ひとつの作品が、どこで終わるのか?という質問をよく聴かれます。
これはデッサンの習得をした者なら誰でも、経験的に学ぶこと。
ひとつの制作には、時間的な制限が必ずあります。
それはたとえ、ダ・ヴィンチが『モナリザ』を人生の終焉まで描き続けたということについても同様。
人生には限りがあるのです。
では、制作は時間によって決められているのかというと、それはそのような簡単な話しではありません。
私は、「一つの作品に層状に存在する無限の作品の可能性を見る」ことがあります。
つまり、制作を始めて、最後に至るまでに、何層もの作品の完成の可能性があったのです。
そして、その後にも無限の完成の可能性があったかもしれないと感じることができるのです。
「たとえ最初の一筆でさえも、ここで自分の命が絶えて二筆目を引けなくても、作品として残すことができる」
という気持ちで描くのと、そうでないのとでは、作品の出来具合に相当な開きが出て来ます。
では、どこで、完成として打ち切るのか?
それは、自分自身の作品としての統一性とかスタイルと関係があるかもしれません。
作品をつくり続けて行くと、必ずそのつくり手のものとしか言いようのない、ある統一した様式が出て来きます。
人は、一人の作家の、この様式の中に安堵しながらも、
そこで繰り広げられるさまざまなバリエーション、可能性の追求に、心躍らすものなのです。
これがとても小さな範囲でのバリエーションしか見当たらない場合は、「物足りない」となり、
あまりにも激しく可能性を追求する姿には、「つき合い切れない」「ついて行けない」となるわけです。
「様式化」することとブランドを形成することとは、よく似ているかもしれませんね。
しかし、芸術における「様式化」には弊害があることは、美術史の中で指摘されてきたことです。
つまり、ひとつの様式が確立してさまざまな人がそれに追従していくと、どこかで形骸化してしまう。
生まれた時に重要だった内容があまり理解されずに、表面的な形ばかりが模倣されて広がって行く。
「アートは、形骸化を嫌います」
さて、話しを再び、元に戻しますが、ひとつの作品には必ず制作の終焉が訪れる。
その瞬間というものは、不思議なものです。
私の場合、理屈ではなく、どうしてもそれ以上触れたくなくなる瞬間が来ます。
それはその作品をアトリエにしばらく置いて常に眺めていてもです。
「それ以上加筆したら、また新しい一枚への旅立ちになってしまう。
それは別のキャンバスにその場を移しましょう」ということになります。
ひとつの小さな画面でさえも、ある一つのかけがえの無い様相があります。
それが出た場合には、それ以上描くとその存在の意味が潰れてしまう、という瞬間があるようなのです。
もうひとつ、私の場合心がけていることがあります。
あまり多くを語り過ぎないということです。
足りないくらいが丁度良い、後は見る人が補って下さるからです。
まだ人間的にはそのような境地に至れませんが。。。。。
少なくとも制作では、良い意味での脱力感を兼ね備えたい、というのが最近の志向性です。
「作品について その1ー作品の完成・未完について」は、とりあえずここまで
追伸:本日相模原は、春雨に桜、畢る。まるで涙の別れ。。。