絵画には対象があるものと、ないものがあります。
例えば静物画は、そこにテーブルがあり、リンゴが置かれている状況を見ながら絵を描くという行為です。
下絵があって、それを見ながら、本画を描く、という場合も具象、抽象に限らず、
対象があって、それを描き写す、模写という行為がなされます。
これを「世界を再現する窓」としましょう。
そういう絵画とは別に、キャンバスそのものを「世界という氷山の一角」とする絵画があります。
完成目標をあらかじめ設定せずに、画布の上で行った、行為がそのまま絵画となるのです。
例えば、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングもその一つです。
しかし、その氷山の一角は、まったくの再現ではないとは言い切れません。
その組成の行為のどこかに、世界での経験から導き出される、仕組みが隠されているやも知れないからです。
私は、むしろこれを「世界を映し出す鏡」ではないか、と思っています。
明鏡止水であれば、それはかなり世界の様相をリアルに映し出すことでしょう。
しかし、画面はあくまでも画面であって世界そのものではありえない。
では、そのように出来上がった絵画はやはり模倣にすぎないのでしょうか?
私はそこで「そうではない」と、あえて言い切ります。
人間は、いつも穏やかな無風の状態とは限らない。
さまざまな出来事に心動かされながら、世界を投影していく。
これを画面の上に落とし込む。
そのように出来て行く「鏡としての絵画」、すなわちこの鏡には、
つくり手である私と、その私に映り込む世界と、そしてその鏡を見つめる観者の世界が、
重なり合い、錯綜して、一つの現実をつくって行きます。
ここにおいて、絵画は世界の模倣とは言えなくなるのです。
唯一無二の現実が、そこで繰り広げられることになるからです。
それは、つくり手だけでなく、見る者が参画した時に生じる、現実の出来事となるのです。
おわり
私の作品について その4ー「世界を映し出す鏡」(2010年4月23日twitterより編集)
追伸:以上は、@HIMA_personさんのブログの『白から黒へのグラデーション。限界は、それに似ている。....永遠に届かないことを知りつつも、手を伸ばし続ける。』から啓示を受けて書いてみました。