美術作品の価格とは、一体どのように判断されるのかと疑問を持っている方が多いようです。
価格って、どのような根拠でつけられるの?そもそもお金で芸術は買えるものなの?そういう疑問から検索されて、このサイトにたどり着く方もいるらしいのです。作家が、このような内訳話しを書くことは珍しいらしく、その噂は海外にまで及んでいるとかいないとか...。
そこで、私の拙い経験談をまじえながら、もう少し具体的に書き残してみようと思います。
もしかしたら、何かの拍子に情報が消される場合があるかもしれませんが(苦笑)。
美術市場には世の中の経済動向がそのまま反映されると言われます。
このデフレ時代の日本にあって、かつては高騰した作家作品に良い値がつかないために、美術市場でものが動かない、従って美術界に活気がないのだということも耳にします。
しかしそれはほんの氷山の一角の作家の話しです。私のようにバブルがはじけた以降に、やっと何とか芽らしいものが出て来た作家にとっては、最初から経済状況に追い風を受けて得したことなど何一つありませんし、経済事情が悪いからと言って、作品を制作して売るということを、経済が回復するまで手控える、なんていうような悠長な余裕すらありません。
一方この不況下にも、高値を維持している作家もあって、その理由をその筋の方に聞いたところ、日本に観光で来るバブルな中国人がお土産に買って行くのだそうです。いわゆるブランド買いです。「有名ならば売れる」という理屈で、高値が付くのです。
このように同じひとつの美術の世界ではありますが、極めて多面的な現象が同時に起きています。
私の場合は、極めてまれな例外のようにして、自主的な判断のできる善意ある人たちに恵まれ、励ましのようにして作品が買われ続けているというのが実際です。このような判断に、美術市場の判断など,何の影響も、意味すらも持ち得ないわけです。ですから、作品の価格も、美術市場に準じて低くするとか高くするということはありません。私自身が長年の経験から判断した価格によって販売しています。
一番最初に作品に価格をつけた時は、正直言って、とても勇気のいることでした。どのように判断したかと言うと、沢山の事例を参考にしました。同じ年代の作家の作品がどのくらいの価格で売られているか?売れ筋の価格とは何か?なるべく見に出かけました。それから海外の画廊でどのようなものがいくらで販売されているか?も判断材料にしました。
ここは多くの日本人が、誤解しているところなのですが、「海外で買った方が美術品は安く買える」というのが私の知るところです。ただ、日本に持って来ると高くなってしまいます。それは、日本に輸入する段階で運送費とレート換算に手数料があること、そして関税や仲介料が加算されるからです。また、日本の例えば東京で販売される場合、店舗の地代、場所代が加算されるていることも必定です。画廊を構えるにはそれ相応の経済基盤が最初から必要なのです。ですから、美術品の価値基準が、日本の方が割高な感じがあります。海外には、確かに高額な美術品もありますが、一方とても安価で気軽に楽しめる作品も多種多様にあって、それらを上手に組み合わせて生活に取り入れられていると、日本を出て旅行をするたびに感じて来ました。
ですから、私は当初なるべく世界標準で安い価格から出発しました。おそらく売上と活動費+材料費とを比較した時に、まったく採算がとれていなかったと思います。その分は、宣伝広告費にお金を使っていると考えるようにしていました。そうなると、ひとつ弱点がありました。価格を値切られると、強くその価格を押し出せないということです。実際、作品を売るものだと自覚していない作家も多いですし、中には「作家が作品を寄贈してくれる」ことを自慢げに話すコレクターの噂も聞くことがあります。
私はたまたまいろいろな経験を経ながら、注意深く歩んで来れたので、初期の段階で必要な知識やコツを少しずつ積み重ねながら、作品の価格を少しずつ修正しつつ、売れ筋の価格を維持出来て来たと自負しています。
その中で貴重な経験になったことをお話ししますと、一つ目は、ある画廊主に、お客さんが「もう少し安くならないの?」と聞いた時に、「美術品が値切られて売られるということはあり得ないし、聞いたことがない。」ときっぱりと言いのけたことです。それは何の迷いもなく、堂々としたもので、それがむしろお客さんに信頼を与えることになったのです。私はその姿勢に、とても学ばされました。と同時にその言葉から、美術品の値段があってないようなものであるとしたら、それを値切るということもあってないような行為なのだと教えられたのです。
この時のお客さんの気持ちを安易に受け止めてしまったら、その先には、価格のない美術作品という存在に行き着くわけですが、これが許されると、今度は誰も美術作品を手に入れることが出来なくなり、大袈裟に言えば盗品のみが横行することになりかねない世界が出来上がって行きます。あるいは、一歩譲って贈答品でしかなくなったとしたら、誰もが平等に買う権利が失われ、ごく一部の懇意にしている人にしか美術品が手に渡らないという、閉鎖的な世界が出来上がって行く可能性があります。
それは理想の美術王国と言えるでしょうか?やはり美術作品には価格があったほうが良いと、私は思うようになりました。そして、確かな基準というものがないからこそ、何かの基準に締め付けられることなく、自由に価格を工夫することで、その経験から売り買いすることの深い学びを得られること自体が重要だと思うようになりました。それは買う側も、売る側も勉強であり、ある種の哲学が形成され、試されて行くことなのです。何が正解というのではなく、それぞれのケースによって必要なノウハウや哲学が生れ、それを経験する事が、とても重要でありがたいと思うようになりました。
もちろん美術作品そのものを所有すること自体が喜びではありますが、むしろそれをいかに所有する事が出来たか、その経過そのものが、より一層の喜びを高めるという事があるでしょう。作家側は次の制作の励みとして、またそれを仲介する販売者は、その鑑識眼を立証しながら、高額な美術品を扱う事が出来るという自負は、より一層の仕事への情熱へと繋がるわけです。そのような中で、資本主義における美術文化が健康的に円滑に動くことで、社会そのものの経済効果、すなわち美術を自由意志で下支えする事はとても望ましい事だと私は思っています。
二つ目は、三島市の商店街の店先に美術作品を展示するイベントに参加して学んだことです。その展示に際して、私は1日だけですが、作品と一緒に店先に立っていました。そこで、高額な化粧品をお店の人がお客さんにセールスしている場面に立ち会うことができました。この時にとても重要なことを学びました。1本5万円の化粧水をめぐって、どのような対話が行われ、そして最初は躊躇していたお客さんが、最終的には満足して買って行ったかを全部聞くことができたのです。
最初は「そんな高価なものを買う余裕がない」と言っていたそのお客さんのお財布から、最後に1万円札が5枚出て来た時は、はっきり言って驚きましたが、「ない」とは単に、「心の余裕がない」ということに過ぎなかったことを知ったのです。しかし一方この時に私の作品は、1点が1万5000円でした。はっきり言って、美術品が化粧品に負けていました(苦笑)。
このころはまだ、実は私自身にさまざまな認識の壁のようなものがあって、かなり狭い意識でしか自分の作品の価格を設定出来ていなかったのです。人は美術作品にお金を払える余裕などないと思い込んでいたのです。しかし、どうでしょう、美しくなるという確たる保障など何一つなくても、人は目の前にない美すら求めようとするのです。そしてそれはもしかしたら、高額であるからこそ、その美を信じたのではないかとさえ思えた経験になりました。
さて、私の学びのチャンスは、けっして恵まれたものばかりでなく、失敗や痛い目も重ねて、より確かな歩みとなって行きました。
三つ目は、初期に作品を善かれと思って安価に譲ったり、はたまたお預けした経験です。このことは結果的に,作品、買い手、売り手、作り手に何も善いことがない、ということに気付かされました。
もらった人は、その時は嬉しいことがあっても、半分は差し上げる人の気持ちが満たされるだけであったという事実です。作品を持ち続けるということは、それなりに覚悟がいることで、長く保管する環境が準備されていなければなりません。良好な環境とは、余裕ある空間があることです。つまり、美術品を飾る事が出来る、それなりの家に住み続ける意欲があるということなのです。それを考えずにむやみに押し付けてはいけないのです。そしてそれは価格を下げて無理矢理に売るということにも、同様の罪があるように思います。安いから買うことが出来たとしても、覚悟がなければそれを楽しみ味わえないものです。
困難を克服して手に入れるからこそ、そのものから十二分に得るものを得て、逃すことがない。
あの化粧品の例のように、高額であればある程、手に入りにくいものであればある程、満足度が増すものになるものではないでしょうか。また作品も大変大事にされる事に繋がります。買い手は、その満足を買いたいはずです。それがお客さん自身に美徳となって戻っていくのです。
お酒のように、作品に酔うということがあるとすれば、その酔いの中の大半は、それを買うことができた自分への酔いこそが大方の真実である、とも言っていいはずです。何なら、ためしにお金を持っている友達をつくって、好きな作品を買ってもらってみたらどうでしょう?買ってもらった喜びなど、1ヶ月も過ぎた頃には、その作品さえ疎ましいものになるはずです。自力で稼いだお金で買えるからこその満足なのです。そして生活必需品でないものを買うことのできる器を自分が持ち得たこと、その自負と、安心感は、理屈では説明出来ないようなものなのです。
そして一方で、高額な美術品の高額さの由来には、多くの人がここからの利益の恩恵を共有しているという事実があります。つまり、その美術品を廻って、沢山の人が喜べば喜ぶ程、それは高額になるわけで、そのような境地を目指すことは、制作側にとっても重要なことなのです。ヘーゲルの言うところの、いわゆる個人の制作物が、真に公共性を持った精神活動としての労働意識に昇華されることになると私は思います。
そう考えると、いつまでも安価な価格で満足していてはいけないと自戒しているところです。
「世の中、不景気で」という言葉が、都合の良い言い訳になり、それがやがて人々の乗り越えられない大きな壁になっている時代かもしれません。しかしながら、それはかなり表面的で雑な捉え方に過ぎないのです。こと細かに世の中を検証して行けば、必ず例外と、相反した矛盾する事例があるはずです。そして、次の来たるべき時代に常識となることは、実は突然何も無いところから現われるのではなく、今この時点でも、どこかで密かに存在し、動いているに違いありません。
さて、先に触れた美術のブランド買いというものは、確かにとても安易で楽な美術の売買形態です。しかしながら、この売買の世界は、刹那的、流動的なものなのです。つまり、買い得たものをやがては売り手放す事が必然となるであろう世界だからです。そして、これは経験から言って、「売り手放したい時は、大抵の場合が不景気でお金に困る時期。一方好景気の時に、自分の財産を崩す気にはならないように、高額になった美術品は手放したくないもの」と決まっています。
このような苦い経験した人たちが、少しずつ美術市場から消えて行くわけですが、そういう中で残るのは、本当に自分が満足する作品を買うことのできる人です。これらの人達は、美術作品に自分でしかわからない価値を見出せるからです。
最後にその「自分でしかわからない価値」とは何かについてお話ししましょう。もうすでに先に触れましたが、これが、その作品を獲得するために、自分の能力を十二分に発揮して得たお金で買うことができたという自負です。できれば、自分の能力の100%より少し上を目指すべきです。そして、お金が十二分にあるから買えるのではなく、ほんの少し無理した価格に敢えて挑戦し、その作品を見ながらこう誓うのです。「この作品を持ち続けられる自分であり続ける」と。持ち続けるとは、肉体的にも精神的にも強固な健康と、今日よりは明日をより善くしようとする意欲を持つ自分であり続けるということです。
そして、大きな器である人が美術作品を買うのではなく、「美術作品を買うことで、より大きな器を目指す」のが本来のありかたなのです。
つまり、現存作家の作品を売買するとは、作家も売り手も買い手も共に自己を極め、共に励まし合いながら高みに向かうことを目指せる、そういう世界なのです。この3者を廻るお金こそが「純粋無垢な生きたお金」として社会に余裕と繁栄、豊かさをもたらすことは言うまでもありません。
作家として、より多くの人に満足を与える価値を生み出せるよう、今年はそれをまず目標として、より一層一点一点真剣に取り組んで行きたいと思っているところです。
追伸:明日はアトリエで新聞記者の取材が入りました。また追ってご報告致します。
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*「画家川田祐子 芸術支援寄付」プロジェクト収入の経過報告40*
1月7日~1月16日
応援寄付 1名様 2口 2000円
賛同寄付 0名様 0口 0円
画集1冊 1260円
作家活動収益(画料・謝礼等) 17500円
小計 20760円
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2014年目的達成まで あと 1,924,857円
皆様のご支援に心から感謝申し上げます!