オレンジ色の胸を輝かせる、冬の渡り鳥ジョウビタキが、
春の訪れの前に、最後のお別れの挨拶に現われたのが先週。
今週に入って、長野もすっかり春らしい陽光に包まれています。
お陰さまで、アトリエ内部も一層充実した設備が整いはじめました。
ジェッソ、絵具、筆、そしてマルオカのキャンバス木枠を大小、
思い切って10万円程取り寄せました。
ホルベイン社の37H型アトリエイーゼルを購入しました。
このイーゼルにはギヤ・ハンドルがついているので、
たとえ130号キャンバスの作品であっても、
容易に微妙な高さ調節をすることができるようになります。
これまで20年近く、合板に杭を打ってキャンバスを掛けて制作して来ましたが、
ようやく肩や腰を痛める負担から解放されることになりそうです。
これまでは手が届かないように思えた価格でしたが、
30%OFFで販売されているサイトを発見。
そしてクインテット展に引き続き、個展発表での成果が実り、購入が可能になりました。
大作をはじめ、作品をご購入下さった方々に深く感謝している次第です。
また、購入に際しましては、ホルベイン社の製品問い合わせ窓口担当者様から
的確で参考になるアドバイスも頂きました。
良いイーゼルが購入出来、感謝の気持ちで一杯です。
(向かって右奥が大型アトリエイーゼル。今は下地塗りのために30号のキャンバスを乗せた状態。)
制作用の椅子として、HAG社のガス圧式昇降が出来るバランスチェアを、
偶然にもヤフオクで、とても手頃な価格で落札することができました。
新品ではとても手が出ないような製品であると同時に、
この型がもう生産されていないため、とても貴重な出物でした。
8400円で落札することができました。
これまで使っていたバランスチェア(赤い方)は、
実はHAG社のものではなく日本のコピー製品です。
座ってみて、改めてHAG社の座椅子部分のクッションがしっかりしていること、
キャスターのすべるような回転を実感することができました。
しかしながら、長らくコピー製品に無理矢理適合して来たために、
HAG社仕様に慣れるまでは、もうしばらく時間がかかりそうです。
早速、ドローイングをこの椅子で制作しています。
制作用の机は自分なりに工夫してしつらえました。
いろいろな工夫をしているのですが、おわかりになるでしょうか。
紙に手を乗せないための腕鎮も自作です。
その上には使っていない油壺を改良してインク壷を取付けました。
台は、10度程やや傾けて製図台のようにしてあります。
鳥の目を持つ制作が続きましたので、
今度は虫の目を持つ制作をしているところです。
近くの雑木林で見かける混沌とした植物の生態や、
第4の癌治療として注目されている樹状細胞の免疫療法のことなどを想い重ねます。
制作の合間に読んでいる本は、下記の通りです。
ハンナ・アーレント著「ラーヘル・ファルンハーゲン」
ハンナ・アーレント著「イェルサレムのアイヒマン」
ハンナ・アーレント著「精神の生活 上」
上橋菜穂子著「隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民」
ヘルマン・ヘッセ著「人は成熟するにつれて若くなる」
モリス・バーマン著「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」
ハンナ・アーレント著作は、映画の余波で興味を持ち、
女性として憧れるとともに、微細な視点を学ぶことができればと読んでいます。
アボリジニの研究者であり、最近国際アンデルセン賞を受賞された上橋氏について、
しばらく著作を追ってみようと思っています。
ヘルマン・ヘッセに出会えたことは、最近得ることができた、最も大きな喜びです。
これまで全く文学に接して来なかったのですが、
それは自分の境遇があまりにも劇的な変化に富むので、
文学を読む必要を感じなかったからです。
でも、もうこのへんで、変化よりもじっくり腰をすえた人生にしたいと願ってやみません。
はらはらドキドキは、文学で楽しめば良いのだとようやく悟りました(苦笑)。
文学に開眼しそうな気配です。
感動した言葉を文中からそのまま抜き出してみます。
「四十歳から五十歳までの十年間は、情熱ある人びとにとって、芸術家にとって、常に危機的な十年であり、生活と自分自身とに折り合いをつけることが往々にして困難な不安の時期であり、たび重なる不満が生じてくる時期である。しかし、それからおちついた時期がやってくる。私はそれらを自ら体験したばかりでなく、多くのほかの人たちの場合にも観察した。興奮と闘いの時代であった青春時代が美しいと同じように、老いること、成熟することも、その美しさと幸せをもっているのである。」(ヘルマン・ヘッセ)
50歳を境に、私ももう若くはないのだと改めて実感するようになってきました。
その老いを受け入れることはなかなか出来ないことです。
しかし、若さを装うことよりも、
老いを受け入れることがどれほど美しいことかは誰の目にも明白です。
正直に生きなければ、真の美しさに到達出来ない。
表面的な美しか感受出来ないようでは、これからは通用しない。
真の美しさに目を向けるような生き方をしなければ、と自省しているところです。
ヘッセは、このようにも語りかけます。
「過ぎ去ったことにこだわったり、それを模倣したりすることが私たちにとって重要なのではなく、変化に対応出来る能力をもって新しいことを体験し、力をつくしてそれに参加することが必要であろう。その限りでは、悲しみは損失に執着するという意味でよいことではなく、真の人生の目的にかなうものではない。」(ヘルマン・ヘッセ)
ヘッセの著作を読んでいると「自然のままに生きることですよ、どんな悪あがきをしたって、人間のすることはたかが知れているんですから」と言われているような気持ちになって来ますが...。
ふと上橋氏の「アボリジニ」を開くと、征服と近代化という歴史にもまれ、
その人生を翻弄されて生きなければならない先住民の深刻な問題を考えると、
ただあるがままの受け入れ、適応することも大変過酷な現実があることを認めざるを得ません。
たしかに郷愁というものを私たちは、先住民に見てしまうものなのかもしれない。
しかし、そのように見ていては先には進むことができないのも事実です。
そしてどんな境遇に陥っても、年齢や民族に関係なく忘れてはならないものがある。
そのように思えてなりません。
それをモリス・バーマン著作で紹介されているベイトソンの言葉から、改めて認識しました。
それが「信念」です。
「人間は、その正しさが自分の抱く信念によって左右されるような命題に従って生きる」
「その命題を正しいと受け入れることがその妥当性を現実に高めることになる。そういう受け入れ状態を称して『信念』と言う」
これは凄いことが書かれていると思いました。
もしかしたら人は、自分をより高める為に無意識に自ら受難をつくり、その中で忍耐や勇気という力を自ら試そう、自覚しようとすらしているのではないかと思ってしまうような書き方です。しかし、本当のところそうとしか思えないことはよくあることです。
そして昨晩、ふと YOU TUBEのおすすめに、J.S.バッハの「聖ヨハネの受難」という曲が与えられました。
「受難」、英語にするとそれはpassion=情熱??
「受難」の場合は、the Passionです。
そもそもキリスト教の「受難」って何なのでしょう?
音楽を聴きながらお考え下さい。
私はバッハの曲に耳を傾けながら、次のような勝手な回想が始まりました。
炎のように燃え盛る海に自分から飛び込むような光景が目の前に見えました。
しかしその炎をよく見ると、情熱を持つ人が自ら発しているようにさえ見えます。
その人は、そのまま放っておくと、焼かれてしまうと端からは見えるのですが、
そんなことにはなりません。
なぜならその炎がその人から発しているために、
炎はその人を食破ってしまったら炎ではなくなってしまうからです。
その人はじっとひたすら耐え忍びました。
さまざまなあざけりがその身を焦がします。
しかし勇気を持って、ひとつひとつの事実を丁寧に自分の目で見つめること出来ました。
するとその炎が実は自分の創り出したものであることにようやく気付いたのです。
そしてじっと目をつむり、そのことを受け入れたのです。
たとえこの身が焼かれても良いと思えたからです。
やがてその炎は、消失して行きました。
情熱が、信念に昇華されたからです。
炎は、単なる化学変化です。
人間が変化を遂げるための現象です。
信念は一夜漬けでは完成しません。
自らさまざまな受難を用意して、その中に飛び込み、
自分の勇気や忍耐を自覚しなければ生成しないのです。
ある瞬間に勇気を出し、長らく耐え忍んで後に、
その情熱の炎の中から不死鳥のように信念が羽ばたいたのでした。
そうか、そうだったんだ...。
宗教では、それが「信仰」ということなのでしょう。
磔刑や火あぶりというのは、そうした人間の歩みをシンボル化したものなのだとはじめて気付きました。
私にもようやく、このことがわかるようになりました。
これも皆、温かい目で見守って下さる方々との出会いや、自然や土地の恵みのおかげです。
心から感謝の気持ちで心が打ち震えます。
ありがとうございました。