何をしてストイックかという話になるのですが。

私の場合は、肉体的な労働よりも、やはり知的意欲にどこまで負荷をかけられるか、ということが最近重要だと思うようになって来ました。

長い間制作していると、作業に関しての段取りが、努力しなくても整って来て、例えばどのくらいの作業力で作品がつくれそうかということも、自然に推し量れるようになってきます。

ある意味で絵画制作も、職人的な要素からいえば、何も考えず、無心の境地で制作して行くことが必要だし、またそれを可能にしてくれる世界です。

そういう側面も確かに重要ですが、やはりそれだけでは「絵画の力に限界がある」と、どこかで気付くようになって来ます。

この2~3年の私の制作活動には、そういう波がやって来て、自分なりになすべきことをいろいろ考え試して来ました。
制作に加えるプラスアルファのひとつとして重要なのが、「考える」という単純な習慣です。でもこの身体性と思考性のバランスがくずれると、制作というのは結構難しくなって来ます。

例えば、ピアニストもそうなのだとグレングールドがどこかで、インタビューに答えていましたが、「どうして両手を違う動きでピアノが弾けるのか」と考えた瞬間に、人間は弾けなくなるもので、それは子供の時からの繰り返しの習慣によって成立するようになっているようなのです。

それからこのような文章があって、私としてはとても府に落ちました。

「創造的な人間なら誰でも、その内面には、美術館の学芸員と、それと相容れない存在である発明家とが同居しているはずです。音楽に起こる脅威の大半は、このどちらか一方が他方を犠牲にして何らかの瞬間的な利得をした結果なのです。」(『グレン・グールド発言集』)

だから、ある程度習慣を作らなければならない時期があって、その時はただとにかく習慣化し続けていくような下積みの期間が必要なのです。それはどの職業の世界でも言える事なのではないでしょうか。

私の場合も、活動初期の約10年間は、ただひたすらに制作し続けて来たので、ある意味雑念に邪魔される事がなく、とても健康的に制作ができました。この期間に、制作することが習慣化されて、自動的に作品が出来て行く体勢が整いました。

しかしこの時期に全く何も考えなかったわけでなく、自分の潜在能力を掘り当てながら、少しずつそれを意識化し、たまに必要に迫られて、言葉に置き換えることもして来ました。その度に、自分が無作為にしていることが必ずしも的外れなことではなくて、それなりに意味があることがわかってきます。

しかし、ここで立ち止まって、自分の制作を意識化しないとどうなるかというと、あるひとつの作品に含まれる新しい要素の重要性に気付かずに、それが一度限りの偶然で終ってしまうということです。

 

「なぜそれが、出て来たのか?」

「何が重要なのか?」

「そもそも私は何をしたいのか?」

そしてこの先に、哲学というものが開かれて来て、

「私とは何であるのか?」ということを問うことになるわけです。

 

そして、立ち止まって考えることで、この先の進むべき先が見えて来る、開かれて来るということが起きやすくなって来ます。

また、作品も煩雑で混沌とした出方ではなくて、系統立てて整理された形で取り出されて来るように思われます。

 

最近この「考える」習慣にプラスしてさらに負荷をかけ、英文あるいは独文の美術書や記事を読むようにしています。辞書を面倒がらずに引きながら、一字一句の意味を突き詰めながら読み解きます。

これはかなりの忍耐を必要とするのですが、やってみて「なぜこれをもっと早いうちからしなかったのだろう?たとえ1日に1行でも良いから、毎日の習慣にしておけば良かった。」と反省しました。

 

自分の関心のある作家が「何を考えてこの作品をつくったのか?」を知ろうと努力することがどれ程、自分の絵画思考を鍛えることになるか。そして、それを日本語ではなく、他の文化の言語で読むことが重要です。

なぜなら、日本語に翻訳された時点で、日本と海外との文化の違いが均されてしまって、その違いを考える部分が見落とされてしまうからです。

 

「私たち日本人が当たり前と思って制作している絵画は、本当の意味で絵画になっているのか?」

実は、このところずっと私はそのことを考え続けています。

 

ヘーゲルが東洋人には「精神がない」と書かれている『歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)』を読んでから、この問いは始まりました。

 

私が考えるに、東洋では無心に作業をするところから、全てを潤滑に習慣化していく知恵が昔からあるのだと思います。

それは欧米諸国の文化からは、精神が摩滅しているかのように見える。

そして優れた美術品はあるにはあるけれど、それらは全て社会のある権力に支配されてつくられているという見方なのです。

それは確かに、この現代の社会にあっても歴然と繰り返されているのです。

まず第一に、資本主義経済に支配されているのかもしれないのですから。

 

そういうことを考えながら、今『Art in Theory 1900 – 2000: An Anthology of Changing Ideasのリヒターのインタビュー記事などを中心に読んでいます。

リヒターについて考えたことがまとまりましたら、また書いてみようと思います。

追伸:

このブログのアドレスは、現在http://www.kawadayuko.com/blog/となっているのですが、これをhttps://blog.kawadayuko.jpにするために悪戦苦闘しています。データを入れるディレクトリーをblog.kawadayuko.jpにしないで、blogというディレクトリーに入れてしまったためです。

それにともない、鏡サイトのhttp://www.ichiu.kawadayuko.comをつくりました。しばらくはこちらのサイトで運営し、追ってhttp://blog.kawadayuko.comに移行する予定です。サイトがみつからない場合があるかもしれませんが、ここ数日で復旧しますので、しばらくお待ち下さい。