元旦早々、S100号(162x162cm)作品に取り組んでいます。その横に、小さいサイズのキャンバスをいくつも並べて、大作の構想を練りながら試作しています。長野でアトリエを構えるようになって、これまでの制作方法と少し変わって来たところがいくつかありますが、そのひとつは、作品との距離です。

1日中アトリエで生活することは以前と何も変わりませんが、作品を制作する場所から、直線で6m程離れてソファを置き、ここで食事をしたり、読書が出来るようになっています。左手の窓辺にはPCのモニターが斜め置きしてあり、撮影した画像と実際の作品が同時に見え、画像の色調整が正確に出来るようにもなっています。寝室で眠っている時間以外は、ほぼ1日中作品が目の前にあることになります。

作品は間近で見るのと、6m離れるのでは、かなり見えて来るものが違います。客観、主観という見え方を調整することが出来るからです。そして、どちらにも偏ることなくバランスをとることが重要です。間近では、自分の内側での判断が自然に出るので、私にとっては自由で楽に出来る作業と言えます。が、失敗も多いのです。遠く離れて、その失敗を冷静に補正して行くわけですが、これにはとても時間がかかります。そして手を動かさないのにも関わらず、とても頭を使って疲れます。そこで、読書をしながら頭を冷やし、何度も次の一手の可能性を練るのです。沢山の一手が見えるわけで、そこから一つを選ぶことが難しいのです。一度に二つを試みることが出来ないのは、まるで将棋のようです。また、その一手の先の先まで読み,完成をあらかじめ見ることも不可能ではないために、その構想を始めると、果てしなく頭が疲労します。

ここで、守りに入るか、攻めで行くかも試されるわけで、敢えて失敗しそうなこともしなければならないことがあります。それでも、途中で投げ出さずに、失敗が失敗ではなくなり、思わぬ展開となるよう踏ん張ります。これをずっと続けた先に「想いのほか」の作品が出来て来るのです。これが私にとっての最大の至福です。

私の作品に失敗がないとは、こういう理由からです。

このような制作方法を身につけられたのは、ひとえに「想いのままにならない」人生だったからに他なりません。そもそも今までに、自分がこうしたいと思ってそうなった試しがありません。いつもこうしたいと思ったことが叶えられず、気付くと思っても見なかったような道にたどり着いているのです。ところが、その道の方が、遥かに素晴らしかったとしか思えないから、これまた不思議なのです。ですから「想いのほか」素晴らしい制作を目指せるのです。

大抵人は「想いのままに生きたい」と願うわけですが、ですから私の場合はちょっと違うのです。「『想いのほか』が与えられますように、それを素直に受け取られる自分でありますように」と私は願います。

鎌倉の八幡宮の少し先に、荏柄天神社が祀られています。学問の神様菅原道真をお参りするために、この時期は受験生が沢山初詣に訪れていることでしょう。私も随分お世話になりました。ここは天神様と言っても、北野天満宮や湯島天神とは違う特別の意味がありまして、私のお気に入りの場所なのです。「荏柄」の名の通り、絵の神様と私は思っているからです。随分長い間ご無沙汰しているのですが、この境内でお参りすると、門を出た左の小さな梅の木に、小さなお札がぶら下げてあります。そしてよく見ると、その札には「想いのまま」と書かれているのです。私がこれを発見した時には、嬉しくなって「思いが叶う」と思ったものでした。しかし、私の想いは何度も叶えられませんでした(苦笑)。

そしてある時に気付いたのです。その想いとはそもそも誰の想いなのか?その札は何を伝えようとしているのか?ということです。そして、私の想いというものも、本当はどこから来る、誰の想いなのか?と考えるようになったのです。すると、私というものが、どんどん周りの人を包括し、社会や時代や人類にまで膨れ上がって、そのつながりの中の小さな1点に過ぎないことに気づくのです。そして私の想いが、人類というような大きな想いに重なった時に、その想いというものを、さて自分は本当に掌握出来るものだろうか?と立ち止まりました。

それをどんなに考えても考えが及ばないのです。私の人生、自分自身でありながら、そのような大きな視野から自分を俯瞰すると、「自分の浅はかな想いのままには生きられるわけがない」これが結論です。しかし、どこかで私を必然とする働きがあることは確かで、その力のままに尽き動かされて、生かされています。そして、その意志と自分の意志とがひとつになったときに「想いのまま」になっているだけなのだと、そう気付いたのです。

では、その大きな意志とひとつになるには?おそらく浅はかな自分を手放すことでしょうか。自分から距離を置くのも一つの手でしょう。無私や忘我というような境地もそのひとつかもしれません。

そうは言っても、自分をなくすというのは、とても難しいことです。絵画は自分が出てしまうものですし、それを自分を表現するものだと誤解されている程ですから。私もついそうなっていることがあるかもしれません。しかし、私の場合は、自分勝手な「想いのまま」を生きようとすると、分かりやすい危険信号が必ずあります。「上手く行かない」というのがそのシグナルです。それで、なるべくそれを回避しようと学習するわけですが、しかし、これも必然なのだと気付かされます。失敗や嫌なことも受け入れて、慌てずにいると、しばらくすると道が自ずと開けるようです。それから開かれた道を歩くのです。失敗は嫌ですが、それを怖がっていると前に進めない、発展が見込めないことの弊害の方が大きいのではないでしょうか。

歳を取ると、そういう意味で、変に学習ができていて、失敗しないようについなりがちです。そういうのも平気でなければなりませんね(苦笑)。

さて以上をまとめると、私の「想いのほか」こそが、大きなものとひとつになった「想いのまま」に違いないとも言えるかもしれません。今年は制作に明け暮れる元旦を過ごしながら、この「想いのほか」を楽しむ1年でありたいと思っているところです。遠回りをしたり、失敗したりしながらも、こうして長野で一人制作して生きられる人生を与えられました。その「想いのまま」を十二分に受け入れ、生きようと思っているところです。

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*「画家川田祐子 芸術支援寄付」プロジェクト収入の経過報告39*

12月27日~1月7日

応援寄付 0名様 0口      0円
賛同寄付 2名様 3口    30000円

作家活動収益(画料・謝礼等) 20000円

小計          50000円

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2014年目的達成まで あと 1,944,357円
ご理解ある皆様のご支援、励まし、ご寄付によって、今年も精一杯作品を制作して行く所存です。
ありがとうございます!