とうとう私も40代最後の年の幕開けを先日迎えました。振り返ればあっという間の出来事だったように思いますし、何ら変化のない私です(苦笑)。

世の中は、随分変化したかもしれません。秘密のアッコちゃんが持っていたコンパクトや少年がジャイアントロボに命令するテレビ画面付きの腕時計などに憧れて子供時代を過ごしました。今、携帯電話を見ると、なぜか漫画やテレビ、映画の世界がそのまま現実になって来ているようにさえ思えることがあります。

人間の想像力・創造力というのは、底知れぬ力があると度々実感します。

今朝も長野で地震があったので、牛伏寺断層についてサイトで検索して調べていましたら、あるブログに貼付けられていた『日本沈没』という映画のYouTubeを発見。私が中学生の時に、デート(笑)で新宿に見に行った映画のリニューアル版であることを知り、二重にショックでした。何が二重かと言いますと、何だか映画の内容が現実味を帯びて来ているとしか思えなかったことと、何でこんなにしつこく自国の沈没がリニューアルされて映画にならなければならないのかと思うからです。何も好き好んで、自分の国が沈没することをわざわざ想像(創造)しなくても。。。。

娯楽や遊びというのは、しかしこのように、かなり残酷だったり深刻だったり自虐的だったりします。子供の時を思い出してみれば、誰でもそういう人間の暗闇の部分を覗いているものですよね。

漫画や映画、テレビが時として子供に与える悪影響として問題視される部分というのは、そのあたりかと思います。

現実というのは、確かに美も醜も両面存在し、片方を隠そうとしますと、現実からどんどん遠ざかり、共感を得られなくなるのです。「上っ面の形だけのきれいごと」という感じでしょうか。

良く出来ているものは、必ず美の中に醜さがある人物像とか、善と悪とが共存する社会が描かれているものです。実は子供の遊びもそうですし、美術や絵画でもそうなのです。わかりやすさの中に実は、わかる人にしかわからない「わかり難さ」が溶かし込まれていたり、美しい人を描いただけなのかと思ったら、上流社会の醜さを皮肉った内容だった、ということがあります。

前回、取りあげたギリシャですが、そもそもギリシャ美術の最大の貢献は、人間の理想美の追求でした。いかにギリシャ人が理想的な人体と優れた頭脳を持っているか、を表現しようとしたのですね。均斉のとれた、人体の黄金比というものから割り出された彫刻表現、神話の神と人間が一つになったような世界です。

ヨーロッパというのはその歴史的流れをことあるごとに、拠り所としてアイデンティティを見出しながら形成していますから、自ずと未だにそういう美意識を堅持していると言えましょう。しかし、歴史のある時点に来ると、これが必ず一旦崩壊します。つまりそれは「古典様式」として、古くさくて堅苦しくて、息が詰まるという話になるのです。そうすると必ず訪れるのが、頽廃的な美意識です。奇妙なものの方が刺激的に感じるような風潮がどこからともなくはじまります。バロック・ロココ美術の次に来たマニエリスムというが、それですね。長く引き延ばされた人物像の表現やグロテスクな美というテーマがその時追求されました。

しかし、そういう動向はあまり長くは続かなくて、必ず良識ある判断とか、道徳観念というようなものが、人間の理性に蘇り、必ず古典復古ということが起きて来ます。そのきっかけになるのが、戦争や天災、疫病等の不幸が続いた時です。人間ははたと我に返り、欠落した美しさを再び取り戻そうとします。

このように、歴史的に見ると、人間の美意識も変化しながら、繰り返しているだけなのかもしれません。

美というものをさらに分析するならば、中国の古の賢人達は、本当にシンプルに「神仙、真理、珍妙」という言葉で表現しています。

奇妙で珍しい美しさを描いたら、人は確かに心惹かれます。しかしそれに飽き足らなくなると、誠実に真理を描き出したものに価値を認めます。最後にそれでも飽き足らない境地があることを誰もが知っています。つまり、そこに神の技としか思えぬものを人は求めようするものなのです。しかしそれにも限界がやがて訪れ、また珍妙なものが愛でられます。大きな周期的な流れを何となくわかって頂けましたでしょうか。

絵画世界では、これを「技法・写実・デフォルメ」という言葉で表現出来るかもしれません。あるいは「印象派・写実主義・シュールリアリズム」と並べて比較するとわかりやすいでしょうか。

このような変化で芸術を見て行く側面もありますが、しかし、長い時代に沢山の人を魅了する作品は、そのどれでもあり、どれでもない境地に至っているものかもしれません。しかし「芸術は必ず気高さ、高貴さを志向する」というのが私の持論です。これがなくなると、頽廃のまま、珍奇なまま戻って来ないということになります。そういう時代はこれまでにはありません。必ずまた元に戻らざるを得ないところに人間は追い込まれることになっています。そして、新たな風潮が沸き起こるのです。それは今これからなのかもしれません。